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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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ケイコク

17/02/23 コンテスト(テーマ):第128回 時空モノガタリ文学賞 【 自転車 】 コメント:2件 秋 ひのこ 閲覧数:803

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『盗らないでください。乗る時は、ひとり1回まで』
 自転車の前かごには、そのような貼紙がついていた。歓楽街から1本入った路地に、青く輝く車体がぽつんと一台。
 そこへもんどりうって駆け込んできた男がひとり。
 背後でひとの叫び声がする。スリがバレた。昨日まで刑務所にいたとはいえ、腕が落ちたものだ。
 貼紙など目にもくれず、キダはこれ幸いと自転車に飛び乗った。
 いたぞ、こっちだ。背中で誰かが怒鳴り、キダは悪態ついて奥へと漕ぎ出す。びゅう、と一陣の風が吹きつけた。
 思わず目を閉じ、開けると世界が赤かった。
 なんだ?
 辺り一面、燃えている。綿の頭巾をかぶり逃げ惑う人々。ひゅるると何かが頭上を切り裂いたかと思うと、前方の建物が爆音と共に弾け飛んだ。
 よろよろと自転車を降りた瞬間、頭に火がついた女に突き飛ばされた。そのまま腰を抜かして地面にへたれこむ。
 手をついた指先で、昭和20年と印字された新聞が燃えていた。

 焼け野原の東京で、ヤノは爬虫類のような目で金目のものを物色していた。
 このご時世、法も秩序もあったものではない。ひとを殺しても逃げ果せそうな世の中である。実際、ヤノは今朝方襲った女の亭主を起き上がれないほどぶちのめしてきた。歯向かう方が悪いのだ。
 ふと見ると、何もかもが灰と煤にまみれる中、異様なほど青く輝く自転車が掘っ立て小屋の裏に寄りかかっている。
『盗らないでください。乗る時は、ひとり1回まで』
 ヤノはにやにや笑い、自転車にまたがる。漕ぎ出すと、びゅう、と向かい風に包まれた。
 いきなり、怒号と共に四方八方から押され叩かれもみくちゃになる。あれよあれよと言う間に自転車から引きずりおろされ、地面に転がった。
 なんだ?
 無数の足に踏みつけられながら、ヤノは煙る空にそびえる巨大な山形の建物を見た。
 東大安田講堂。

 
 青い自転車は巡る。盗るなという注意を無視する人間を乗せて。
 いつどこへ辿り着くのかは、神のみぞ知る。
 同じ人間が2度乗っても、もはやどこへも行きはしない。誰が決めたか、乗る時は、ひとり1回まで。


 タナカは焦り、途方に暮れていた。
 バスは1日に2本、タクシーは見当たらない。見渡す限り田畑のこんな田舎でどうやってあの丘の上まで行けばよいのか。
 とにかく、前へ進むしかない。背広を腕にかけ、ネクタイをゆるめてひたすら走る。容赦ない日差しに眩暈がした。
 と、畦(あぜ)に青い自転車が無防備に横たわっている。側に若い女が膝を抱えて座っていた。髪型から服にいたるまで妙に古臭い。女は乱れた髪の奥からタナカを見上げ、言った。
「この自転車、乗ってみなよ」
 この急いでいる時に、こんな得体の知れない人間に構っている暇などない。タナカは無視して通り過ぎる。
「急いでるんじゃないの? 乗っていいよ」
 丘は果てしなく遠い。急いでいる、と他人に定義され、タナカの意識が再び女と自転車に向く。
 前かごの奇妙な注意書きに、眉根を寄せた。次いで女を注視する。汗で崩れた化粧の頬から鎖骨、それに胸の辺りまで赤く擦った跡が目立つ。口紅か、それとも。
「あたしが乗っても、もうどこへも行けなかったからさ。罰でも当たったんかね。こんなクソ田舎」
 女の言う意味の半分もわからないが、タナカは焦っていた。移動手段があるなら、喉から手が出るほど欲しい。
「必ず返します」
 女は気味悪いが、丁寧に断ってタナカは自転車を起こした。
 乗ってすぐにわかる。軽い。速い。タナカの胸に希望が沸いた。こんなに速いならきっと――。その瞬間、胸ポケットで電話が鳴った。ぎくりとし、足を留めて電話を耳に当てる。

 電話を切り、自転車にまたがったまま長い間動けずにいた。
「どーしたのー」
 背後から女の声がする。答える気にもならなかった。
 すると、風の悪戯か、背中を後ろから押された気がした。くい、と車輪が前に動く。タナカは遥か前方の丘を見据え、行くしかない、と決意した。再びペダルを踏み込む。風がびゅう、と吹き抜けた。

「母さん」
 駆けつけた病室で、母親は穏やかに――起きていた。
「え?」
 医者はおろか看護婦も、電話をしてきた妹も、その夫も、誰もいない。
「アツシ、来てくれたの」
 危篤だ、という連絡を今朝方受け、東京からとんできたのだ。そしてさっき、亡くなったと電話が入った。それなのに、何故。
「わざわざ悪いね」
 母が痩せた頬に皺を寄せて微笑んだ。「それにしても、すごい汗ね。走ってきたの?」
 開けた窓から木々の香りをのせて風が吹き込む。ベッド脇の日めくりカレンダーがはらりと揺れた。その日付が1日前になっていることを、タナカはまだ、知らない。


 気まぐれな青い自転車は、今日も次の走者を待っている。
 盗らないでと、試している。


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このストーリーに関するコメント

17/03/15 光石七

拝読しました。
自転車に乗る一人一人の状況がとてもリアルで、不思議で重みと味のある作品になっていると思いました。
素晴らしかったです!

17/03/16 秋 ひのこ

光石七さま
こちらにもコメントをいただきありがとうございます!
2000文字で複数の異なる登場人物、異なる時代背景を描くのは至難の技ですね!(汗)
ちょっと詰め込むには無理がある設定だったかなあ(設定がわかりにくいだろうなあ)と、心配でした。
友人に「テーマは自転車なの。どんな話がいいかな」と尋ねてみたら、「タイムマシン自転車」と即答されたので、根性で作った話です(苦笑)。

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