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伊藤 亜佐美さん

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2月のある日

17/02/20 コンテスト(テーマ):第128回 時空モノガタリ文学賞 【 自転車 】 コメント:0件 伊藤 亜佐美 閲覧数:268

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 ごうごうっ。耳元で風を切る音が騒々しい。車道を走るときはいつも緊張する。前を行くロードバイクのホイールを見つめる。言われたとおりにホイールが擦れるくらいに近づこうとペダルの回転数を上げるが、少しでも気を抜くとすぐ離れてしまう。手元のメーターを見る。時速28キロ。なかなかスピードに乗れない。一年で最も寒いこの時期の風は凶器だ。ネックウォーマーで口元まで覆い耳あてをしたうえでヘルメットをかぶる。アウトドア用の薄手のダウンジャケットをしっかりと着こみ分厚い手袋をはめている。肌の露出はそう多くはないが、のっけから頬は冷たい風にさらされ痛くてたまらず、じきに感覚がなくなりそうだ。ネックウォーマーをつけて走っていると、とにかく息苦しい。それでも、太陽が上がりきらない今は、この気温の低さに素のまま呼吸をする勇気はなかった。

「ねぇ、今日梅まつりの車内吊り広告をみたよ。今週末見に行こうよ」
ソファの上にだらりと伸びて今にも寝てしまいそうなツレに声をかける。
「うん、いいよ」目なんか細くなって腹を出した昼寝中の猫みたいだ。「でも、あそこ車だと途中で渋滞にはまりやすいからロードかマウンテンで行くよ。いい?」
「うん、わかった」と、軽く答えたのが数日前。今、腹出し猫は嘘のように影をひそめ、ちらちらと後ろを振り返っては、「そこ、出過ぎ。もっとガードレール側に寄って!」だの「姿勢が悪い!」だの、容赦のない大声が飛んでくる。何も好きこのんで車道を出過ぎたわけじゃありませんよう、障害物を避けただけだよ。同じ姿勢を保つのは疲れるんだよう。そっちはロードバイクでスピード出るかもしんないけど、こっちはマウンテンバイクだよ、少しは手加減してよね、と心の中で悪態つきながら、せっせとペダルを回す。家から目的地まではおよそ30キロ。ということは、このペースでいくと一時間強で着くかどうか。普段車では通らない、自転車ならではの小道を幾つも通り抜け、ようやく見覚えのある風景が姿を現す。梅林の手前でも、この辺は梅の木を植えている家が多い。庭木の梅もきれいに咲いている。目的地間近でようやくスピードを落として、人をよけながらのんびり走行する。梅の花の甘酸っぱい香りが漂っている。早春の香りだ。ネックウォーマーを下げて深呼吸をする。陽光を存分に浴びてきたつぼみが満開になっている様子が体の隅々に沁みこんでくるような、そんな感覚がした。寒さで強張った体は、急激に温かくなり始め、薄っすらと汗ばんでくる。
「最近、バイクライドもさまになってきたな。途中危なっかしいところもあるけどさ」とツレが言う。二人して小回りがきくものだから、甘酒を飲んだり、梅干し屋さんを覗き込んだり、終いには「暑くなった」と言いながら「寒い時期のアイスって最高!」とソフトクリームを食べたり、点在するお店を自由に周る。
「何だか、天気がまずいなぁ」との言葉に、ふと向こう側に目をやると、いつの間にかどす黒い空が地平線の際に広がっている。「あれは絶対雨になるね」二人していそいそと帰り支度をする。何しろ自宅まで30キロもあり、厳寒期だ。濡れるわけにはいかない。「どうかな、最後まで足が持つかな」この場合は、ばてずに往路と同じようなスピードで帰れるかどうか、という心配だ。兎にも角にも、嗅覚でも味覚でも十分堪能した梅まつりの会場をあとにする。エネルギーチャージは、この飲み食いで十分な筈で、疲れがピークに達する前に家に帰りつけるかが勝負になる。ペダルを踏み込む。ふくらはぎから太ももにかけて張りを感じる。「おー、重い。休んで乳酸溜まったかな」「ほら、つべこべ言わずに行くぞ!」目に見えないほどゆるやかな勾配が味方して、幾分楽な感じがする。一気に加速してマウンテンバイクごと風に乗せてしまえ。そんなつもりで、自宅を目指す。あと、8キロくらいかというところで最初の雨粒があたる。大粒の雨はちょうどサングラスの縁をかすり頬を伝っていった。あ、まずい。「気合入れていくぞー!」とツレが叫んでる。命取りとまではいかないが、寒い日に雨に打たれるのが危険なのは経験済みだ。寒さで身体の機能が著しく低下してコントロールがままならなくなるのだから。背後から雨のにおいが濃くなってくる中、どうにか雨から逃れようとがむしゃらにペダルを回す。情けないほど息を乱して、それでもじりじりと距離を稼いで残り2キロ程度。あと少し。いつもなら、がくんとペースが落ちるはずが、火事場の馬鹿力で「うりゃあ」と雄たけびをあげながら、最後まで疾走する。家の前でふらふらになりながらマウンテンバイクを降りるとツレのにやけ顔が。「雨の方が、ダレないで帰って来れるな」疲れた私はふて腐れた顔で答える。「知らないの? 酸性雨にあたると髪の毛が禿げちゃうんだから」2月のある休日のことである。


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