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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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壁のない箱庭の中で、わたしたちは

17/02/19 コンテスト(テーマ):第128回 時空モノガタリ文学賞 【 自転車 】 コメント:6件 秋 ひのこ 閲覧数:799

時空モノガタリからの選評

結婚によって生じる女性の閉塞感が伝わる作品だと思います。今の時代、昔とは違っていつでもどこにでも自由に行けるようなイメージがありますが、「壁のない箱庭の中で…」のタイトル通り、心理的な意味で見えない壁の中で暮らしている女性たちも、いまだ多いのかもしれません。繊細な心理がしっかり描かれていますね。姑にも同じような過去があり、共感が示されたことで、どこか救いが感じられました。また、陰湿ないじめにあいながらも、自転車を「案外楽しそうに漕いでいた」彼女たちの姿は印象的です。スズが家に戻ってきた理由は、姑の「なんでだろうねえ」との返答と同様、彼女自身にもはっきりとわからないのでしょう。その後の選択に関しては、はっきりとは示されませんが、物事に簡単な正解などなく手探りで彼女はこれから進んで行くのだろうと想像されます。こうした終わり方が雑な印象や物足りない印象にならないのは、これが秋さんの感性から出てくる部分でもあるからなのでしょう。舅のセクハラと姑の嫉妬まじりの嫌がらせに負けず、時にユーモアを持って対処するような強さが感じられるところが、現代的で良かったと思います。 

時空モノガタリK

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「スズ、お茶淹れてくれ」
 畑から戻ってきた舅が汗を拭いながら台所に顔を出した。そのタオルをスズの鼻先に押しつけてくる。
「ほれ、男の臭い」
 スズは思い切り眉を寄せて顔を背けた。舅は「興奮するなよ」とニヤけ、スズの尻をパンとはたく。
 毒があればとっくに仕込んでいる。スズは急須に湯を注ぎながら、唾でも入れてやろうかと口内を舐める。
 次いで、姑がやってきた。
「スズさん、洗濯物早く取り入れてよ。冷たくなってるじゃない」
 気づいても自分で取り込むことはしない。スズは条件反射で謝り、庭へ走る。
 見ると、スズの下着だけが地面に落ちていた。姑は時々こういう幼稚な嫌がらせをする。舅がセクハラ行為を働いた時は特に、だ。

 老人ふたりの下着まで洗うようになって5年。農家の嫁という名の使用人になって、5年だ。元々田舎生まれの田舎育ちだし、夫が好きでここまでついてきたが、疲れていた。


「おい、スズ。こっち来てみろ」
 ある日舅に呼ばれ、勝手口からスズが顔を出すと、納屋の前で舅が古い自転車を出していた。
「自転車欲しいんだってな。これ、使えるぞ」
 夫だ。夫がまた、喋ったのだ。
 最近、ネットでよく見ていたのだ。自転車の通販を。夫に「何のために」と聞かれたので「便利そうだから」と答えておいたが、本当は漠然とどこか自由に行ける手段が欲しくて、自転車ならそれが叶いそうな気がしていた。
 スズは粗大ゴミにしか見えないそれを一瞥する。錆で真っ赤な車体。つぶれた車輪。歪んだ前かご。
「自転車も女も、空気入れてちょっと磨いてやりゃ充分使える。マサにやらせるとするか」
 カカと笑い、舅はスズの尻をさっと撫でて息子を呼びに行った。
 
 農家の朝は早い。畑でひと仕事してから、全員で朝食。スズはそこから掃除、洗濯、昼食の準備をして、急いで畑に戻る。そしてまた、全員で昼食。
 午後、姑は昼寝をするため部屋に戻り、舅と夫は町に買い出しに出かけた。
 スズは周囲に誰もいないのを見計らい、さっと裏庭に出る。
 納屋の前に、舅の言いつけに従い夫が修理した自転車があった。見れば見るほど、恐ろしく古い。
 スズはゴムが欠けたハンドルに触れた。

 ちょっと、そこまで。

 革が剝けたサドルにまたがってみる。ペダルを踏み込むと痛々しい悲鳴を上げ、よろよろと進み出した。
 舞台の幕が上がる瞬間のように、心が沸き立った。

 ちょっと、そこまで。

 スズは農道をふらふらと走り出す。
 きしみを上げぐんぐんスピードに乗る。水と土のにおいが向かい風となって全身を打つ。振り返ると、あんなにもスズを閉じ込めていた家が、濃密な緑の先に点のように小さくなっていた。
 未知の世界への誘惑に、腹から声が出た。

 ちょっと、そこまで!



 激しい音を立てて自転車が地に蹴り倒され、幾つかの部品が飛んだ。
 蹴った足を砂地に擦りつけ、舅が鬼の形相で怒鳴りつける。
「この馬鹿者が! 無断で家を空けるとは何事だ! 何様のつもりだ!」
 夜明けが近い庭先で、姑も夫も険しい表情でそれを見守る。
 昼を過ぎ、夜通し走って元の場所に帰ってきたスズは、侘びの言葉も開き直りの言葉もなくただその場に立ちつくし、踏み潰された虫のような自転車を見つめ続けた。

 青白い空の向こうで一番鶏が細く高く鳴いた。
「今日もやることたくさんあるんだからね。夜通し遊んだからって寝てる時間なんかないよ」
 縁側に座り込むスズの背後から、姑が声をかけた。
 反応しないスズの隣に姑は黙って腰をおろし、急須と茶碗が乗った盆をふたりの間に置く。
「あんたのしたこと、わからないわけじゃないよ」
 姑が吐き捨て、茶を注ぐ。
「あの自転車で、あたしも昔同じことしたからね。あたしの時は姑と舅のほかに小姑がふたりもいて、そりゃあ苛められた。で、ある日何もかも嫌になって、どこか遠くへ行きたくてあの自転車に乗って家を飛び出したんだよ」
 スズの曇り硝子のような目は、朽ちた自転車から離れない。
「あたしは根性なしのあんたと違って、きっちり丸1日は家出したけどね」
 若い頃の姑が必死に自転車を漕ぐ姿を想像した。いや、案外楽しそうに漕いでいたのかもしれない。たぶん、自分もそうだった。
「舅と旦那からそれぞれ平手打ちくらったよ。姑からは水ぶっかけられた」
 真冬にだよ、と姑は嘲笑した。
「なんで、戻ったんですか」
 ひと言、尋ねたスズに、姑はお茶を啜り、長い間考えていた。
 東の山合いから白い光がもれ始め、みるみるうちに庭の夜を塗りかえていく。
「なんでだろうねえ」
 それが、姑の答えだった。
 スズは自分の答えを探し始め、お茶を口に含む。
 姑が淹れるお茶は、薄い。それを美味しいと感じ、スズは初めて喉が渇いていたことに気がついた。


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このストーリーに関するコメント

17/02/21 沓屋南実

スズさんの自分を客観的に見ているようなところに、好感をもちました。
姑のほうがもっと酷い状況だった、しかし、今のスズさんは周りに似たような立場の人は少ないだろうから、精神的疲労はとてつもないように思います。姑世代は、運命として諦めることができた、と考えます。
しかし、今の時代を生きるスズさんは「運命」として諦めてほしくない、と思う私は、すっかり彼女のいとこか友だちの気持ちになっています。
素敵な作品をありがとうございました。

17/02/22 秋 ひのこ

沓屋南実さま
こんにちは。返信が遅くなり申し訳ありません!
仰るとおり、姑とスズとでは世代がまるで違いますので、わたしも、スズにはこの先諦めてほしくないと思います。
自転車でまさか本当に完全に家出できるはずもなく(たぶん姑の時は結構本気だったのではと……)、魔がさした、というか追い詰められて思考が麻痺してしまった状態でふらりと出て行った、というのが今回のスズです。
本当はもっとスズの性格や人柄、姑の嫌な面を濃く出したかったのですが、2000文字に凝縮するのは本当に難しいです。
キャラクターをどこまで表現できるかは永遠の課題ですね。
コメントをありがとうございました。とても嬉しかったです。

17/03/07 待井小雨

拝読致しました。
スズさんにとって、日々は出口のなく辛いものだったのだと思います。
自転車にのってそのまま帰らずにいられれば良かったのに戻ってしまったことの答えは、スズさん自身にも過去の姑さんにも出せないままなのでしょう。
いつかどこかで吹っ切れて、楽になる日がやってくれば良いなと思いました。

17/03/08 秋 ひのこ

待井小雨さま
こんにちは。感想をいただきありがとうございます!
「スズが戻ってしまう」という流れは、現代女性ならこういう状況で「もうやだ。離婚」とぽーんと出て行ってしまうのかな、とも思ったりして、迷いました。
ただ、第3者からみて「それはあなた、離婚でしょう。早く逃げなさいよ」というような状況でも、当の本人はそうそう簡単に実行できないだろう、そして、まさに待井さまの仰る通り、その理由は案外もやもやとして自分自身にも見出だせないのかもしれない、と考え、このようになりました。
コメントありがとうございました。とても嬉しかったです。

17/03/15 光石七

拝読しました。
どこかへ行きたい、自由になりたい。そう思うのも当然の状況の中で与えられた古びた自転車。つい乗って出て行ってしまうのも無理はないと思います。
帰ってきた理由は、いつかわかるのでしょうか。
お姑さんが過去に同じことをしていたとは意外で、案外理解のある人なのかなと思いました。でも、かつての嫁も自分が姑になれば……というやつなのでしょうか。
主人公がこの先、苦しみよりも喜びや幸せを多く見出せますように。
素敵なお話をありがとうございます!

17/03/16 秋 ひのこ

光石七さま
こんにちは、コメントをありがとうございます!
そうなんです。姑もかつては逃げようとした身。誰よりも嫁のスズの理解者であってもおかしくないのに、意地悪をするという。負の連鎖です。
わたしも、主人公にはこの先幸せを見出してほしいです。そして何より、将来「意地悪な姑」になりませんように!
感想をいただきありがとうございました。とても嬉しかったです。

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