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ちほさん

心のあたたかくなるお話を じっくりと書いてみたいです。

性別 女性
将来の夢 図書館にある子どもの本を全て読むこと。 童話作家になること。
座右の銘 たいせつなのは、どれだけたくさんのことを したかではなく、どれだけ心をこめたかです。(マザー・テレサ)

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「グリーンゲートの少年たち」第4話・小さな大冒険

17/02/06 コンテスト(テーマ):第100回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 ちほ 閲覧数:602

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 あと一時間もすれば、昼食の時間という頃。
「……もったいないことよねぇ」
 お手伝いの女の子・桃ちゃんが話しているのが障子越しに聞こえた。
 桃ちゃんとあやちゃんは、冬華の家のお手伝いをしている。二人とも十六歳で、二年前にこの家に住み込みで働きに来た。彼女たちはどんな仕事でも愚痴一つこぼさずにこなしてしまう。冬華も、病気が重い時はずいぶんと世話になった。
 二人は、冬華の部屋の前を通る時は、いつも冬華が眠っているところを起こしてしまわないように声を小さくする。もちろん、冬華はいつも眠っているわけではない。今だって起きていた。だから(もったいないって何?)と聞きたいくらいだったが、病人をやっているのだから静かに眠っているふりをしていなくてはならない。それはそれはつまらないことだけど。
 最近はもう体調が良いのだから、布団から出て寝間着から服に着替えて、近所へ散歩くらいしたっていいじゃないか、くらいは思っている。
「明日の台風で、河川敷の桜は全て散ってしまうわね」
 あやちゃんの言葉に、桃ちゃんも
「あんなにきれいなのに」と返し、それきり二人の声は聞こえなくなった。たぶん、廊下の角を曲がったのだろう。
 ──桜が散ってしまう。
 月帆が「まるで天国のように美しい」と天国を知っているわけではないのに、そう言っていた。
「明日には……散る」
 冬華はほとんど無意識に布団から出ると、外出用の服に着替える。どんな服がこの季節に合うものかはわからないが、このグリーンゲートの中心部にある大病院へ検査に行った時の、派手でもなく地味でもないものにしてみた。しっくりこないが。裸で出かけるわけではないから良しとした。このいい加減さを、きっとお洒落な兄は呆れるだろう。
 スッと部屋から出た。そして、足音を立てないように玄関に向かう。
 玄関まで来たが
(靴がない!)
 考えてみれば冬華には、靴はほとんど縁のないものだったのだ。困って、結局兄の靴を借りてみた。多少ブカブカだが歩けないことはない。
「さて、行こうか」
 あっさりと冬華は家出してしまった。まったく重大なこととは思わずに。

「えーと、河川敷はどこだろう」
 家の前に横たわっている遊歩道を左に曲がる。右には何もないと弟から聞いているので、たぶん左に曲がるのが正しい。
 植え込みには星の形をした小さな白い花がいくつも咲いていた。まるで冬華を誘うように、どこまで歩いても道沿いに続く。暖かな春の風は、小さな花を鈴のように揺らした。 花咲く道の途切れた果てには、一本の道がそれを受けて続く。舗装されていない道。土が足の裏に響く。その道を先導している柳の木の全てが、冬華を招くように葉を裏表にして笑っている。うれしくなって、冬華も小さく笑った。
 自分が河川敷に立っていることに気がついた時、こここそが目的地であることがわかった。まるで谷底をゆく川のように、グリーンゲート川はトウトウと流れている。川を覗きこもうとしているように、桜が立派な枝葉を広げていた。それに加えて、白い光が泡立つように花が咲いていた。枝の全てに宿る雪のように。そんな桜がいくつも河川敷で咲き誇っていた。あんまりにも美しすぎて、冬華はぼんやりしてしまった。春の河川敷は柔らかな緑にあふれている。春が来るたびに、ここではこんなにも美しい光景が生きているのか。
 あぁ、どうしたらいいのだろう。冬華は困った。こんなにも美しい光景を見た場合、どうすればいいのかがわからない。何もしないのでは、もったいない。
 冬華は、視線を河川敷のあちこちに飛ばしてみた。そこで気がついたのは、多くの人が緑の大地に座り込むか寝転んでいる姿だった。冬華も、それをマネしてみようと思った。
 靴を脱いで、桜の木の下で身を丸くする。たんぽぽの黄色が目に鮮やかに映った。可愛い花だなと思う。昔、弟が摘んできてくれたことを思い出す。川が流れながら、何かをブツブツ言っている。暖かな春の風に、眠りを誘われる。時間が永遠に思われる。ミツバチがブーンと羽を鳴らして飛んでいる。現と夢の狭間にあっさりと落ちていく。
 フッと気がついたとき、自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。
「あ……桜を見に来たんだっけ」
 あれからどれだけ時間が経ったのだろう。時計は忘れてきてしまった。身を起こすと、太陽は、まだ頭上で赤々と照っている。まだ遊べる。冬華は、愉快になってきた。体調も悪くないし、もう少し何かができそうだった。
 ……そうだ! 学校へ行こう!
「でも、お腹がすいたな」
 それに冬華は、のどもかわいていた。こんなに気分良くお腹がすいているなんてことは初めてだと思う。いつもだったら、ただ健康を取り戻すためだけに食べていた。冬華は、お腹のすいている今の自分の体が不思議だった。
「あら、こんにちは。これでもいかが?」
 声がして振り返ると、桜の木の後ろから十二歳くらいの白いワンピース姿の女の子が現れた。薄茶色の髪をおさげにして、頭にはカンカン帽子を被っている。彼女は冬華の前に膝を付くと、手にしたバスケットを開けた。  
 サンドイッチが二人分と瓶が一本入っていた。
「お酒が入っているの?」
「いえ、まさか。あたし、お酒は飲めないわ。あなたもそうでしょ? 子どもはお酒を飲んではいけないの。ちゃんと国の法律で決められているでしょ?」
 言われて、ふだん平気で飲みたいだけ飲んでいる自分を恥じた。酒を飲むことを恥じたことなど初めてだった。
「さぁ、食べて。今、サンドイッチを上手に作れるように練習しているの」
「ぼくが食べてもいいの?」
「あなたのようにお腹のすいている人を待っていたのよ。お腹がすいていれば、サンドイッチの出来の悪さなんか気にならないでしょ? あたしは誰かと食べるのも好きなの、この川辺でね。外で食べるのは美味しいから。毎日ここに通っているわけではないのよ。今日みたいなお天気の水曜日だけよ」 
 彼女は流れるように話す。それを好ましく思いながら、冬華はサンドイッチに手を伸ばした。
「ぼくは冬華。星流学院に行く途中。君はだれ?」
「秘密よ。その方が面白いわ」
 食べ終わると、彼女は立ち上がり遠くを指差した。
「星流学院はあちらの……あの赤い屋根をした建物よね」
 冬華は、目を細めてその赤い屋根を確認した。
「知らなかったよ。ありがとう」
 彼女はにっこり笑うと、バスケット片手に走り去っていく。途中で振り返ると、彼女は冬華に大きな声で言った。
「また会えたらいいわね!」
 彼女は、カンカン帽子を忘れていった。それを拾い、冬華は星流学院を目指して歩きだす。とても不思議な子だったと思いながら。カンカン帽子を取り戻しに、また冬華の前に姿を現すような気がした。
「ここはどこだろう?」
 冬華は、曲がりくねっている細道を歩いていた。赤い屋根を目指すためには、河川敷から離れて、瓦屋根の屋敷が密集している中にある細道を行くしかないようだった。この辺りの地理はまるでわからない。ただ赤い屋根がどの角を曲がっても空の向こうに見えることだけが救いだった。
「あっ!」
 冬華は、思わず声に出した。
「あった!」
 弟の月帆が、星流学院の入学前に見つけた店だ。白いペンキで壁は不器用に塗られ、土星の形をした金色の看板が風に揺れている。『カラメル屋』と書かれてある。ここで月帆は、鉱石のシトリンを買ってきてくれた。弟と(いつか一緒に行きましょう)と約束をした。弟によると、ここでは甘食やソーダ水などを食べていけるカウンターがあるそうだ。いつか来られたらいいなと思いつつ、距離的に無理だと思っていた。
(でも、来ちゃった……)
 冬華は笑顔になる。ところが『カラメル屋』は閉まっているようだった。クリーム色のカーテンが隙間なく閉じられている。中の様子がまったく見えない。看板だけが間違いなく『カラメル屋』であることを示していた。中途半端な気分にさせられて、なんだか寂しくなった。あきらめるしかないことが悔しい。
「でも、一緒にと約束したのだから」
 今は一人だから開いていなくてもいい。いつか月帆と一緒のときに開いていてほしいと願う。
 細道を赤い屋根を目指して進んでいく。その果てに目的の学校の正門が現れた。わきの大きな桜の木は満開だった。
「ここか……」
 元気なら自分が通っていたはずの学校は。そう、身体が丈夫でここに通っていたならば、自分は月帆の先輩にあたる。大きな学校ではないようで、校舎はもっと奥まったところにあるらしい。自分は生徒ではない。入ってもいいのだろうか? 迷う。でも、せっかくここまで来たのだから、ちょっと覗いてみたい。一時限でいいから学校で勉強をしてみたい。それは、無理なことだろうか? 
「何をしている?」
「ひゃ?」
 驚いた。青いつなぎを着たおじいさんが、ホウキとチリトリを持って背後に立っていた。正門から中を覗き込んでいる冬華を怪しんだのだろう。
「どなたですか?」
「こっちが聞きたい」
「あ、ごめんなさい。ぼく、冬華といいます。弟がここにいます」
「忘れ物を届けに?」
「いえ、ここで一時限だけ勉強がしたくて」
 おじいさんは、じーっと冬華を見る。
「変わり者だねぇ。みんな勉強より少しでも遊ぼうとするのに」
「あ、遊ぶのもいいですねぇ。素敵だ!」
「はぁ?」
 冬華が的外れなことを言いつつもニコニコしているのを見て、おじいさんは問いかけてくる。
「遊んだことないのかい?」
「いえ、体調のいい日は少しだけ遊べます。そんな日は、ほとんどないけど」
 おじいさんは冬華を、その灰色の瞳でじっと見つめてくる。しばらくしてウンと一つうなずくと、冬華の右腕をぐっと引き、さっさと校舎の方へ歩き出した。転びそうになりながら冬華は問う。
「どうしたのですか?」
「おまえさんの夢を叶えなくてはならないから急ぐんだ。体調が悪くならないうちにやっちまわないとな」
 冬華は嬉しくなった。おじいさんは続けて言う。
「わしは、ここの用務員だ。これからおまえさんを校長のところへ連れていく。どういうことになるかは彼女次第。優しい人だが厳しいところもある。覚悟しておくように。わしはそのあたりのことは何も手助けしてやれんからな。自分の想い一つで突破するがいいよ」  
 正面玄関から入る。赤い絨毯を敷きつめた廊下を、相変わらず腕を引かれながら進んでいく。クリーム色の壁と青い柱。廊下側の窓はレースのカーテン付き。そこに可愛らしい赤いひさしも付いている。実用性でなく、とことん可愛らしさを追求した結果、こんな風に童話の世界を模した学校ができたのだろう。ここは女子に人気のある学校で、男子の制服はこの地方で一番の人気だ。
「授業中だな」
 用務員さんは呟いた。たくさんの子どもたちがいるはずなのに、先生方の声しか響かない。
「ここが職員室で、その隣が校長室だ。がんばりな」
 いつの間にか、学校で一番偉い人の部屋の前まで来ていた。とたんに緊張してくる。
「あの……」
「自分の想い一つだと言っただろう?」
 大丈夫かなと思いつつ、がんばろうと決めて『校長室』のプレートの張られたドアをノックした。
 校長先生は薄灰色のスーツ姿で、左胸に小さくて赤い造花を付けていた。ふだん服装に気を配らない冬華も思わず、今の自分の服装が気になってきた。生徒も制服を着ているのだから、自分もそれに相応しい服を身につけるべきだったかもしれない。そんなことを気にしつつ話していた冬華に、校長先生の表情が柔らかくなる。
「少し深呼吸しなさい」
 冬華はいつの間にか体中がガチガチに緊張していた。校長先生は細身の女性で、黒髪をカールさせて肩に流していた。年齢は五十代だろう。額の大きな二本の皺が、少し怖いように見える。でも話してみると、口調は厳しいがその内容はどれも正しかった。
「さてね、冬華さん。勉強をしたいのはけっこうなことです。でも、あなたにはまずやるべきことがあります」
「それは何でしょう?」
「先ほど弟の月帆くんに電話があったのですよ。冬華さんが行方不明だと。この学院に来ていないかとご両親は心配していました。あなたが真っ直ぐに目指しそうなのは、月帆くんのいるここだと思われたようです」
 行方不明? 家から出てくる時、誰にも言わず、メモすら残さずに出てきてしまったことを思い出す。冬華は、家族のことを思うと申し訳なくなる。けれど、この大いなる冒険を後悔していない自分もいる。
「電話で十分に謝って、それから自分の気持ちを正直に言いなさい」
 冬華は校長室の電話に手を伸ばして、それに触れようとした。が止めた。顔を上げ、彼女に問う。
「使ってもいいでしょうか?」
「どうぞ。これからは手を伸ばす前に聞きなさい。何でもそうです」
 彼女はもっと何かを言いたそうにしていたが、電話がちょうどよく通じたところだったので口をつぐんだ。
 父はいつもより無口で、明らかに怒っていた。冬華は謝り続けた。自分の望みを訴えるどころではない。途中で校長先生に受話器を取り上げられる。彼女は、冷静に言う。
「冬華さんのお父様でしょうか。先程はお電話をいただきまして……いえ、こちらこそ。ところで、大変なことです。冬華さんは学校へ行っていないおかげで、集団行動が苦手なようで……えぇ、すぐにわかりました。……そして、なにより常識が通用しません。これを正すには教育しかありません。……いえ、これ以上学校へ行かせない方向で教育を進めることは、彼の心に歪みを招きます。彼と話してみて、わかりました。とりあえず、今日のところは彼に一時限の教育を与えてみます。その間、今私が申しましたことについて深くお考えください。彼は授業が終わり次第、月帆くんと下校させます。……えぇ、そのようにした方がよろしいですわね。……はい、では、よろしくお願いします。あぁ、そうそう、彼がこの学院に自ら来てくださったのはまったくの幸運でしたわ。そう、彼自身にとって」 
 電話は切られた。冬華は校長先生を見た。彼女はニコリともせず、こう言った。
「あなたには一時限の授業を与えます。終了したら、月帆くんと迎えの車で帰りなさい。あなたの受ける授業は、朝香先生の歴史です。月帆くんと同じクラスです。その方が安心できるでしょう。わかりましたか?」
「はい。いろいろとごめんなさい」
「謝る必要はありません。私は、教育の必要な者にそれを与えるだけです」
 厳しいけれど優しいところのある校長先生だから、ちっとも怖くないと冬華は思った。電話で父に話してくれた内容は、全てが冬華のためだった。
「じゃあ、行きましょう。今は休み時間で、あと五分もすれば歴史の授業が始まります」
 とうとう授業が受けられる。冬華は、わくわくしてきた。
「一時限は五十分授業ですからね」
 クラス名の書かれたプレートが、ドアに貼られていた。
 『黒猫の幸福組・3組』
一体どちらが本当のクラス名だろうか。
「両方です」
 校長先生は、冬華が疑問を発する前に素早く答えた。心を読まれたことに冬華は多少動揺した。
 ノックの音。続けてドアを開ける音。
「朝香先生、こちらに」
 校長先生は、相変わらずの温かみに欠けた声で呼んだ。
 冬華は目を大きく見開いて、朝香先生を見た。名前だけは知っていた。月帆の担任であり、『ものがたりクラブ』の顧問でもある。最近冬華は『ものがたりクラブ』に参加した。身体が悪くなければ、とっくにこの学校にお邪魔して挨拶を終えているところだ。冬華にとって縁の深い人である。今、初めて会うのだけど。
 年齢は三十歳に届くかどうかという若い男の先生で、栗色の髪が少し乱れていた。背丈は兄の鳴海より低くて、顔は卵型。肌の色は小麦色。黒い瞳は、おもしろいことが大好きな少年のようにキラキラしている。まぁ、『ものがたりクラブ』では日記を三人称で書けという妙な活動をしているし、きっと面白そうなことが大好きなんだなと冬華は思う。もしそうなら、自分ととても似ている人だ。
「ようこそ。やっと会えたね」
 言われて、一生会えなくてもおかしくなかったことに気がついた。感動して泣きたいくらいになった。
「じゃあ、歴史を勉強してみようか」
 朝香先生が、冬華に優しく言う。
「この子は、学校にまったく慣れていません。弟さんの隣に席を用意するといいでしょう。鉛筆やノートも弟さんに借りると良いでしょうね。では、よろしく」
 校長先生はそう言って、すぐ去っていった。
 冬華は、朝香先生に腕を引かれて教室に入ってしまう。たくさんの生徒の視線が自分に向けられて、少し怖くなる。
「あーっ!」
 ガタンと椅子が引かれる音がした。そちらを見ると左から二列目の前から三番目の席に月帆がいた。彼は立ち上がり口をあんぐり開けて、人差し指を冬華に向けた。
「冬華兄さん!」
 教室中に響くくらいの大きさで叫んだ。
「……ごめん」
 他に思いつく言葉などなかった。
 まず、このクラスの生徒たちに自己紹介をした。
「勉強させてください。学校に通って勉強をするのがぼくの夢だったんです」
 生徒たちは全員驚いていた。冬華は、自分の言葉のどこに驚かせるようなことが含まれていたのかがわからなかった。ウソはついていないのだけどと首をひねっていたら、朝香先生が説明してくれた。
「みんな遊ぶ方がずっと好きだから。勉強が好きな人は、実はあまりいないのだよ。君のような人は珍しい。でも、君はそれでいい」
 教室の後ろの方に余った机や椅子があったので、みんな冬華のためにそれを月帆の隣に移動してくれた。
 授業に入る前に、月帆が算数のノートを後ろのページから使えばいいと寄こしてくれた。鉛筆も貸してくれた。そして、教科書は二人で頭をくっつけるようにして使った。
「兄さんと勉強ができるなんて、夢のようです」
 月帆は嬉しそうにささやいた。
 歴史の授業。先生は、遠い国の歴史を語ってくれた。冬華にとっては、それは絵本を読んで聞かせてくれているように、ドキドキワクワクするものだった。授業は、アッという間に終わった。 
 夢中になっていた冬華はガッカリした。次に学校で学べる日は、たぶん来ない。もしかして校長先生の言葉通りに父は動くかもしれないけれど、あの頑固な父のことだから、可能性は低い。冬華は大きな溜息をついた。
 彼の周りに生徒たちが集まってくる。
「ほんとうにもう来ないんですか?」
 みんなが口々に言う。
「ぼくたちが冬華さんのことを気をつけて見ているからと、冬華さんのお父さんに言ってみてもダメでしょうか?」
 みんな、冬華と共に勉強したいようだった。
「ぼくがいた方がいいの?」
「数えていたんです」
「何を?」
「冬華さんが手を上げた回数」
「二十回!」
 クスクス笑いが広がる。
「あそこまでどん欲に勉強したがってる人、初めて見たから」
「だから、応援したくて」
 月帆のクラスメートは、出会ったばかりの冬華に優しかった。
「……ありがとう」
 泣きそうになりながら冬華は、机の中にしまっていたカンカン帽子を取り出した。自分はもう帰るしかない。
「さ、行きましょう」
 月帆が手を引いてくれた。そのとき彼はハッとした顔になる。冬華は弟に、人差し指を唇にあててみせた。
 朝香先生とクラスメートと校長先生に挨拶をしてから、冬華は月帆と裏門から出た。そこには迎えの車が待ちかねていた。乗りこむと、車は動き出す。
「『カラメル屋』は開いていなかったよ」
「行ったの?」
「うん」
 月帆は兄の肩に触れた。
「今度一緒にいきましょう。そのときはきっと開いています」
 冬華はカンカン帽子を手にしたまま、弟に寄りかかる。とても疲れていた。
「この帽子、どうしたのですか?」
「サンドイッチをごちそうしてくれた子の忘れもの。返さないと」
「サンドイッチをごちそうしてくれた子って、だれです?」
「この帽子を忘れていった子」
「この帽子を……ま、いいや。兄さん、疲れていますね」
「うん、とても……」
 うつらうつらしてから、ふわりと夢の中へ滑り落ちていく。
 気がついたら、高熱を出して寝込むということになっていた。熱を出したことはバレないように気をつけようと思っていたのに。そうしたら、健康体になったという理由で学校に通わせてもらえるかもしれないと。額に乗せられた氷のうがうっとおしい。点滴まで打たれてしまっている。これ以上ないほどの素晴らしい夢の時間を過ごしたのに、その果てがこれでは哀しい。もうずっとダメなのだろうか。この家が牢獄に思えた。そんな風に感じていた時、障子がスッと静かに動いた。入ってきたのは、父。 
 もともと体の大きな人だが、今はさらに大きく見えて、すごく怖い。が逃げられない。いや、そうではないと、ふと冬華は気がついた。
 先生に言われたことを思い出したのだ。
『あなたにはまずやるべきことがあります』
 今やるべきことは……
「ごめんなさい」
 心から謝罪することだった。父は、冬華の枕元に座る。怒っているようではなく、悩んでいるようだった。父が黙っているので、冬華もそれ以上は言わないでいた。しばらくして、父は冬華に問う。
「どうだった?」
「え?」
「外だよ。好きに歩いてみて、どう感じたのかを教えてくれないか?」
 父は怖い声をしていなかった。そのせいか、冬華はもう我慢ならなかった! 説得するなんてどうでもいい。自分のこの想いをとにかく誰かに聞いてほしかったのだ!
 台風が来て桜が散ってしまう不安から、家を出たこと。暖かな空気の中を気持ちよく歩いて、とうとう河川敷まで行けてしまったこと。桜の美しい様子とお昼寝。そのあと、可愛らしい少女がくれたサンドイッチを食べたこと。そこまで行ったら、自分の通うはずだった星流学院まで行きたくなってしまって、そうしたこと。先生もクラスメートもみんな優しかったこと。授業はおもしろくてしかたなかったこと。
「……そして、もう自分の手には入らない世界です」
 冬華の目から涙がぼろぼろとこぼれていく。忘れてしまうには美しすぎた。もう手に入らないのなら、家から出るのではなかった!
「冬華……そんなに泣くな」
 父の指先が、冬華のまぶたにそっと触れる。冬華の唇が微かに動いた。
「もうお終いです」
 父の指が宙を彷徨った。
「ぼくは何か大変な罪でも犯したでしょうか? ここはまるで牢獄です」
「……」
「ぼくを自由にしてください」
「……」
「ぼくに自由をください」
 冬華は目を閉じた。そして、もう何も期待などせず眠ってしまうつもりだった。
「いいよ」
 父の小さな声が聞こえて、眠りに落ちそうだったところを現実に引き戻された。冬華は驚いて目を見開き、思わず叫んでしまった。
「いいのですか!?」
「朝と夕方に十分間くらいの散歩をするといい。一週間に一度、一時限の授業を受けに星流学院へ行きなさい。そのくらいのことは父さんだって考えていたんだぞ。まぁ、校長先生に言われたからだが。おまえを可愛がりすぎて、おまえを不幸にしていたな。ほんとうになんてことだろう」
 冬華は、父に右腕を伸ばした。しかし届かず、パタリと布団の上に落ちる。
「どうした?」
 父に問われたが、冬華はしばらく何も言わずにぼうっとしていた。やがて、小さな声で感動を込めてこう言った。
「ぼくの人生が動き出しました。ぼくは、きっと幸せに生きていける……」



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