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野々小花さん

野々小花(ののしょうか)です。文化教室に通って、書く勉強をしています。

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顔のない隣人

17/01/31 コンテスト(テーマ):第126回 時空モノガタリ文学賞 【 304号室 】 コメント:0件 野々小花 閲覧数:418

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 午前0時になると、隣人はベランダで煙草を吸う。壁の薄いマンション。窓を開けてベランダに出たな、と気配でわかる。私も追いかけるようにしてベランダへ出る。安物のサンダルを履き、脇に置かれたほうきを手に取る。
 カチッとライターの音がして、すぐに煙のにおいが夜の風に混ざって流れてきた。冬のつめたい空気と一緒に、肺の中に入ってくる。むせそうになるのをこらえ、私は乱暴な手つきで掃除を始める。ザッザッとわざと音を立てる。いくら掃いても、砂ぼこりさえない。当たり前だ。毎日、掃除をしているのだから。毎日、午前0時、私は隣人に嫌がらせをしている。

 五年前、大学へ進学するために信州の片田舎から上京してきた。そのときから、私はこの部屋で暮らしている。高台に建つ七階建てのマンション。見晴らしの良さが気に入った。部屋の窓からは、大きな川が見える。地元の清流によく似た川だ。
 夜になると、川と、向こう岸の家々の明かりをよく眺めた。大学の四年間、特別、仲が良い友達はできなかった。人付き合いが苦手なのは子供のころから変わらない。けれど、それを寂しいと感じたことはない。田舎の深い人付き合いが苦手だったから、むしろ今の生活が快適だ。就職を機に引っ越しを考えたが、やめた。相変わらず、私は、川を見ている。

 空き部屋だった隣室、304号室に人が越してきたのはいつの頃だったか。引っ越しの挨拶はなかった。生活音から、一人暮らしであること、男性であることがわかった。
 マンションの掲示板には、「ベランダでの喫煙は規約違反です」という張り紙がある。目立つ位置に貼ってあるのに、隣人は気にした様子もない。一体どういう神経をしているのか。おかげで、夜、窓をあけて川を見ることができなくなった。煙は嫌いだ。うっかり取りこみ忘れた洗濯物には、翌朝、しっかりとにおいが染みついている。
 文句を言いたい。でも、言えない。ご近所トラブルは怖い。他人に文句を言える性格ではないから、ひたすら我慢した。我慢して、我慢して、だけどある日、限界を超えた。
 午前0時、隣人は煙草を吸う。私はベランダの掃除を始める。ほうきで掃く音が聞こえるように掃く。これは、脅しだ。煙草を吸っていることを知っているぞ。規約違反だぞ。そう、無言の圧力をかけている。けれど、隣人はそうとう神経が図太いのか、外で吸う煙草がよほど美味いのか、一向に止める気配はなかった。
 ほうきで掃きながら、私は咳払いもするようになった。わざとらしく、ゴホゴホと咳き込む。においがするぞ。おまえの規約違反を知っているぞ。文句は言えないのに、こういう陰険なことはできるのだな、と自分が嫌になった。

 父親が倒れたのは、冬の終わり頃だった。幸い、命に別状はなかったが、私は実家に戻ることにした。今の仕事を辞め、家業を手伝うと決めた。
 春になって、私は退職した。部屋の荷物は、あっという間に片付いた。引っ越し業者がきて、次々に段ボールと家具は運び出されていった。がらんとした部屋の中に、私はしばらくの間、何もせずにいた。しばらくしてから、新幹線の切符を持って、部屋を出た。
 管理人と、左隣りの住人に挨拶を済ませ、マンションを出る。右隣りの、304号室へは行かなかった。向こうだって、最初に挨拶をしてこなかったから、お互いさまだ。
 今日は土曜日だから、隣人はきっと部屋にいる。平日の早朝、私が出勤する前に部屋を出て、帰るのは深夜遅く。気配で、隣の生活ぶりがわかる。土日は疲れからか、一歩も外へ出ない。すれ違ってばかりで、言葉を交わしたことも、顔を合わせたことさえなかった。私は隣人の顔を、最後まで知らないままだった。
 高台にあるマンションから、駅に向かう道を下っていく。このマンションに入居を決めたのは、窓の外に、故郷に流れる川によく似た川があったからだ。これから私は、また、あの田舎特有の、息苦しさをも感じる濃密な人間関係の中で生きていく。今の暮らしとは、真逆の生活。

 足を止め、振り返った。三階の、右から三番目。あの部屋に五年間住んでいた。五年間、特にこれといった思い出もない。友達も、恋人も、できないままだった。何も残らなかった。故郷を流れる清流のように、窓の外の川のように、さらさらと時間だけが過ぎただけだった。
 ひとつぐらい、残るものが、あってもいいのかもしれない。良い思い出でなくてもいい。嫌味を言われても、陰険な女だと罵られても。
 初めての挨拶は、さようなら。そう隣人に告げるために、私は下った道を引き返した。



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