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沓屋南実さん

音楽、表社会系、詩、エッセイなど書いております。 よろしく、お願いします。

性別 女性
将来の夢 小説家。 音楽を聴きながら、一日中本を読んで、小説を書く生活。 行きつけの音楽カフェで、皆とおしゃべりすること。
座右の銘 諦めさえしなければ 良いことは待っている

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ハイデルベルクへ

17/01/13 コンテスト(テーマ):第98回 【 自由投稿スペース 】 コメント:1件 沓屋南実 閲覧数:390

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  ぼくは、母と後見人を説き伏せて、ライプツィヒから早くも移ることにした。
 その前に、ヴィーク先生とクラーラが旅立った。まだ、風が冷ややかな春のはじめの頃だったか。1828年11月のゲヴァントハウスデビューから何ヶ月か経ち、演奏家としてのキャリアを積むべく演奏旅行に出たのである。ザクセン国の都ドレースデンがその最初の地であった。ザクセンで名声を得れば、プロイセン国のベルリン、やがてウィーン、パリへ。クラーラを世界的な一流のピアニストにするというヴィーク先生の野心への、第一歩が始まった。  
 最初のライプツィヒ時代のぼくは、気の進まない法学の勉強から次第に遠のき、この街の刺激に満ちた音楽界に加わりながらも、将来を見定められずふらふらしていた。クラーラは、子どもながら華やかな舞台に立つスター、ぼくにとって聖画を眺めるような遠い存在だった。ハイデルベルクに移って、物理的にも遠くなると、さらにそれを実感することとなった。
 ぼくは、心配性の母を安心させるために、しばしば勉強の励んでいると手紙に嘘を並べたものだ。そして、さらに優れた法学者のいるハイデルベルク大学に移りたいと熱望した。ジャン・パウルを共に熱心に語らう親友ローゼンが、ハイデルベルクがとても良いところだとしきりに勧めるので、ぼくは迷いを断つ良いきっかけが見つかることを期待したのである。1829年の春もたけなわの頃だった。
 ハイデルベルク大学においても、ぼくは、引き続き法学部に籍を置いた。
 ここは、商業都市として栄えるライプツィヒとは、人も暮らしぶりも大きく違った。王侯貴族のもと芸術家が育ち教養豊かな人々いて、伝統を守っていた。ネッカー川に沿いにあるオットー・フリードリヒの古い城が緑に囲まれる美しい風景は、ロマン派文学の巨星たちを惹きつけ、その足跡も残っていた。
 フリードリヒ・ヘルダーリン、アヒム・フォン・アルニム、クレメンス・ブレンターノ、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフといった詩人の作品は「ハイデルベルク・ロマン主義」として知られている。アルニムとブレンターノは、「子供の魔法の角笛」と題するドイツ民衆歌謡集をこここで出版した。これらの作家・詩人の書物は、父が営んでいた書籍店にも多数揃い、ぼくは子どもの頃から愛読していた。 ハイデルベルクは、訪れる前から心の故郷のようなところなのである。
  ハイデルベルクの豊かな自然は、ぼくをほっさせてくれた。どこへ行っても、気持ちよく散歩できる並木道や森を求めないではいられない。 ライプツィヒは自然が乏しかった。商業都市として発展し、音楽文化はその経済力を基盤に開花し、富裕層のステイタスとして消費される面は、否めなかった。そうした殺伐とした雰囲気に、馴染めなかったのは、心が弱くなっていたからだろう。
 ぼくは落ち着いたこの地に移り、大学に通い始めると、法学の勉強への興味が新鮮に湧いた。故郷と同じように自然が手の届くところにいつもある。朝起きて外にでると、すがすがしい気持ちになったものだ。
 ぼくが講義に出て、熱心に励むことに母はどんなに喜んだことだろう。何しろハイデルベルク大学はドイツ最古の大学で、その道の一流の教授陣を誇っていたのである。恩師との出会いを、次に語りたい。


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このストーリーに関するコメント

17/01/13 沓屋南実

「R.シューマン、若き日を語る」をタイトルに入れ忘れました。
修正できませんよね。

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