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アシタバさん

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春のゴング

17/01/06 コンテスト(テーマ):第126回 時空モノガタリ文学賞 【 304号室 】 コメント:0件 アシタバ 閲覧数:390

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 会社から持ち帰った仕事を終わらせるためにノートパソコンのキーボードをリズムよく鳴らしていた。苦もなく作業を進めていると、新しい仕事にようやく慣れたことを実感する。新しい生活にも、だ。
 自宅であるマンションの一室は三階に位置するので、ベランダの窓を開けていても、他人に覗かれる心配はない。窓を全開にしていると暖かい夜風が頬を撫で、独特の匂いを胸に吸った。春の匂いがする。
 春という言葉を思い浮かべると、つい、かつての自分の名前を思い出してしまう。もうハルじゃなくて、ただの晴美だ。晴美として引っ越してきたマンションの連中にはこれまでの経歴がバレてハルさんと呼ばれている。それを止めないアタシには、どうやらまだ未練てやつがあるらしい。
 すると、隣の304号室からだろう、穏やかでない声が窓をくぐって飛び込んできた。
「あなたって本当最悪!」
 その後を懇願するような声が追いかけてくる。
「待ってくれ! 話を聞いてくれ」
 やれやれ、またか。
 事態を把握し、玄関に意識をむけた。乱暴に玄関の扉を開いて、ドタドタとリビングにやって来た。アタシの目の前に現れた女性はいつものお隣さんである。
「顔が般若になっているわよ」
 アタシが言うと般若がその場に崩れ、体を丸めて、ひたすら泣き始めた。
「ダンゴムシみたい」
「せめてアルマジロにして!」
 憐れな彼女の背中をさすってやる。
「彼、また浮気?」
 聞かなくても当たりだろう。
 この子の彼氏は相当に女癖が悪い。一昔前はそりゃもう酷いもので、彼女を入れて四股していたこともあると聞いた。その内の二人は彼女の友達だったから最悪だ。おまけに彼女がそれについて追及しても、開き直って逆切れするほどの馬鹿野郎である。
 以前マンションの踊り場で言い争っているところにアタシが割り込んで以来、彼女はアタシに助けを求めるようになった。もう何回目だっけ? アタシが介入することで、彼も少しは大人しくなった――筈だったけど?
「懲りない男。いい加減別れたら?」
 彼女は丸まった状態でモゾモゾ首を振った。
「ヤダ。最低な奴だけど、根は良い人なの」
 それにはアタシも同意する。彼は良い奴なのだ。意外なことに。
 あんなでも彼女をちゃんと愛している。でも愛があふれて止まらないから、余分な愛をいろんな女に振りまいて、結果モテてしまうのだ。困ったことに。
「仕方ない。行ってくるわ」
 彼女の頭を撫で、304号室へと向かう。このパターンにもすっかり慣れてしまった。実を言うと毎回気分が高揚する。引退しても、アタシに染み込んだ闘魂は簡単には消えないらしい。やっぱり昔の生き方に未練があるのかもしれない、けど一方で、この生活も悪くない、と今のアタシは思っている。
 体が臨戦態勢になる。
 ゴングの音が頭の中で響いた。
「試合開始よ」
 304号室に入場した。

 アルマジロの体勢を解く。
 ハルさんが304号室に行ってくれた。
 しばらくすると悲鳴が聞こえてきた。まぎれもなく彼の声色だった。
「テメェ! まだ懲りてなかったのか!」
「やっぱり来た! ごめんなさい! 許して!」
 ハルさんと彼の大声や二人の暴れまわる振動が響き渡る。恐らく彼は必死に逃げまどい、ハルさんは彼を捕まえて元女子プロレスラー流のお仕置きをしようとしているのだろう。とても怪我で引退したとは思えない迫力が壁越しに伝わってくる。
 玄関から外の廊下へ出ると、ライオンがシマウマを狩っているような騒ぎにマンションの住人が集まりだしていた。
「また304号室でやっているんかい?」
「はい、いつもすみません」
 私が謝ると、201号室のおじいさんは愉快そうに笑った。
「いいって、ハルさんが暴れるのは見ていて爽快なんだよ」
 304号室の扉は開かれていて、いつのまにか観戦する人だかりが出来ていた。彼はこの人達のせいで部屋から脱出出来なくなっているのだろう。
「お、グレート・ハルがまたやってるな」「いいぞ、やっちまえ」「ハルさん、そこよ」「いけいけ」
「誰か助けて」
「待てつってんだろが!」
 これが今や私の住むマンションの恒例になっている。304号室は臨時のプロレス会場と化してしまうのだ。複雑な心境だけれど、私もつい笑いが洩れてしまう。ハルさんは生き生きしていて、その姿は綺麗という言葉がよく似合っていた。
 賑やかなマンションの外から春の匂いがした。私の好きな匂いだ。この匂いの正体を知識として知りはしない。けれど、好きなものはちゃんと体のどこかが覚えているから、人間は不思議だ。
 歓声が上がった。
 ハルさんのツームストンパイルドライバーが決まる。
 すると、キッチンからだろう、フライパンやお玉、鍋が床に落ちた音がした。良く通る、綺麗な振動が響く。
 ゴングの音に聞こえた。


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