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沓屋南実さん

音楽、表社会系、詩、エッセイなど書いております。 よろしく、お願いします。

性別 女性
将来の夢 小説家。 音楽を聴きながら、一日中本を読んで、小説を書く生活。 行きつけの音楽カフェで、皆とおしゃべりすること。
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最上の演奏

17/01/01 コンテスト(テーマ):第124回 時空モノガタリ文学賞 【 五分間 】 コメント:0件 沓屋南実 閲覧数:527

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「一番心に残るコンサートはどれですか? 特別心に残るものは?」
 定番の質問だ。老指揮者イアン・べインズは、すぐに的確に答えるつもりが、言葉に詰まった。記者の「特別なもの」という言葉が浮き立って聴こえてホリー・トムズのことを思い出したからだ。
「それは……。ほんの五分だったが、素晴らしい時間を過ごしたよ。うまく言えないが、最高だった。あの演奏は、私の心の支えだ」
 聞き手はいぶかしげに、しわの刻まれた彼の顔を見つめた。
「失礼。少し席を外すよ。すぐ戻る」
 イアン・ベインズは、ぽかんとした顔の記者を残して、席を立った。そして、この建物の、最上階の喫茶室に向かった。
 彼は、眺めの良いいつもの席にどっかりと腰を下ろし、二年ほど前の、秋はじめのまだ暑さが残る季節に、時を戻していた。

 半世紀にわたり、ピアニストとして活躍した、ホリー・トムズのボストン郊外の自宅。同郷の彼女のことは、当然デビュー前から知ってはいた。しかし、親しく言葉を交わすようになるまで、長い年月を要したのだった。やがて、それぞれ才能を開花し、いつしか一流の舞台で指揮者とソリストとして、また室内楽においてもたびたび共演するようになり、交流を深めてきた。
 長い黒髪に、大きな瞳のホリー・トムズは、舞台映えする。その容姿の印象は演奏のそれがやすやすと凌駕したので、当然ながら多くのファンを獲得した。彼は、若かりし頃を懐かしみ、一緒に過去をたどれる彼女の存在の大きさを感じていた。
 元ピアニストは、引退し教職をを辞してからも、日々の練習を欠かさず、親しい人を招いての小さなコンサートを続けていた。そんな彼女が、病気のために鍵盤に触れられなくなり、心を沈ませていた。前の訪問の折にはまだピアノを弾けないで、沈鬱な顔を向けていたのが、気になっていた。
 ホリーは、笑顔で老指揮者を出迎えた。  
「ありがとう、来てくれたのね。元気そう嬉しいわ」
「君も元気そうだ。だよ。一時は心配したけれど、大丈夫そうだね」
「ええ、何とか娘たちのおかげで。あなたの活躍も励みにしていたわよ。それでね、ピアノを弾くく気力を取り戻して、また練習しているの」
 イアンは嬉しくなった。
「それは、良いことだ。ぜひ聴かせてほしいな」
「指がうまく回るかどうか。でも、調子が良く弾けるとね、とても心が満たされるわ。そんな演奏をあなたに聴かせられたら良いのだけど」

 ホリーの家政婦が用意した昼食をふたりはゆっくりと取った。懐かしい話をしながら。それから、グランドピアノのある部屋に移った。
 イアンは、モーツァルトのソナタを弾いた。曲が終わると、彼は彼女のほうに、向き直り、口を開いた。
「ほら、覚えているかい? 私たちの約束」
「約束? あら、私何か忘れているかしら。最近のこと?」
 イアン・ベインズは、頭を振った。
「ほら、君が三十までに結婚せず、ぼくが三十三で独身だったら、結婚しようって。君は良いアイディアね。そうしましょうと言ったよ」
 元ピアニストは目を見開いた。
「ああ、そんな話ししたわねえ。でもあなたは、結婚していたわね」
「君はまだひとりだった」
「ええ。私はまだだった。あなたはでもしばらくして、離婚したのよね」
「そうだ、離婚がもっと早ければ君を迎えにいったのにな」
 彼女はケラケラ笑った。
「あら残念。ベインズ夫人になり損ねたってわけね」
 ホリーの結婚が発表になって、彼は落胆したひとりである。自身の結婚が悲劇的であったため、全てすっきりしたら、と思っていたのだが。結婚はタイミングと言うが、全くその通りである。
 イアン・ベインズは、指揮者として、作曲や編曲の仕事にも意欲を燃やしながら、再婚と離婚を繰り返し、結局独りになった。彼女は、演奏活動と家庭生活を上手に両立させて、数年前夫を送った。イアンは笑いながら言った。
「今からでも、間に合うよ」
「そうね、考えてみようかしら」
 彼女も笑って答えた。
 
「じゃ、私も弾いてみるわ」
 ホリーは、ゆっくりと立ち上がった。動作はゆっくりになったが、ピアノに向かう彼女の真摯な横顔は、変わらない。根っからのピアニストであり、ピアノとともに人生を歩んできたのだ。
 ピアノの音が響きはじめた。バッハのフーガと、ブラームスの間奏曲を続けて。わずか五分ほどのなかに、彼女らしい深みのある素晴らしい演奏だった。病後のこのような復活演奏はまさに、奇跡だ。彼の目は涙で潤んでいた。
 ピアノを弾き終えたホリーは少女のようだった。頬は上気し、瞳は輝いていた。安堵のため息をつくと、ふたりはしばらく見つめ合っていた。
 
 二年前のたった五分という短い時間は、間違いなく彼の生涯において忘れがたい最上のものだ。記者を待たせてしまった上に、この宝物の価値は説明できそうにない。


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