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沓屋南実さん

音楽、表社会系、詩、エッセイなど書いております。 よろしく、お願いします。

性別 女性
将来の夢 小説家。 音楽を聴きながら、一日中本を読んで、小説を書く生活。 行きつけの音楽カフェで、皆とおしゃべりすること。
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ぼくの故郷ツヴィッカウ R.シューマン、若き日を語る2

16/11/12 コンテスト(テーマ):第93回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 沓屋南実 閲覧数:580

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 10歳を迎える1820年の3月に、ぼくはツヴィッカウのギムナジウムに進んだ。生まれてからライプツィヒ大学に入るまでの18年もの間、自然豊かなこの愛すべき故郷で過ごすことができたのは、本当に幸運だった。生涯、求めてやまなかったことの一つは、ぼくの魂を抱きとめてくれる美しい自然だったのである。
 故郷のツヴィッカウという街は、前回も触れたように、ナポレオン軍の通り道となったためにさんざんな目に遭ったが、ぼくがギムナジウムに通う頃にはすっかり立ち直り、活気が戻っていた。父の出版や書籍販売の仕事も順調で、家を買って引っ越した。そこは市のたつ広場の角にあって賑やかな場所だけど、同時に少し歩けばぼくの求める自然があった。学校で嫌なことがあったときは、流れる小川のほとりで、土と風の香る林へ逃げ込んだよ。学校というところは今はだいぶ違うのかもしれないが、ぼくの敏感な感性で耐えることは難しい、不条理なことがいろいろあったんだ。
 とにかく、豊かな自然に抱かれながら育ったことは、ぼくが後に作曲をする上でも、大きな影響を及ぼした。ライプツィヒの街中に生まれ育ったクラーラは、後にぼくを通して「自然」へ愛を傾けるようになるんだよ。それは、まだだいぶ先のこと。いつか機会があったら、その話もしたいと思う。

 バランス感覚のある教養人だった父は、音楽に触れる機会を子どもたちに与えてくれた。姉や兄たちもピアノを弾いた。ぼくが習いはじめたのは7才、父がピアノを買ってくれたのがやっと10才。そんなぼくが作曲家になるとは。両親の家系に音楽に携わる人は、誰もいなかったのだから。
 クラーラは4才で父親フリードヒ・ヴィークから音楽の手ほどきをうけた。母親はソプラノ歌手で、家では生徒にピアノも教えていた。また、家には音楽家が集まって演奏する機会も多かったから、クラーラは生まれたときから、ピアノや弦楽器の美しい音色の鳴り響く家で育ったのである。
 それにしても驚くのは、彼女は8才の誕生日まえ、つまりピアノを習いはじめてわずか3年でモーツァルトの変ホ長調の協奏曲第14番を、ゲヴァントハウスの演奏家の伴奏で見事に弾いたことだ。ヴィーク家の私的音楽会で、親しい人々に囲まれての初協奏曲を弾くのは、おそらく本人の意思ではなかっただろう。しかし、ピアノにぞっこんの彼女のこと、弾きはじめれば音楽の世界に没頭したのではないだろうか。
 演奏が終わって皆が感嘆して盛んな拍手を送り、クラーラはそのに拍手に困惑したと、離別した母親へ手紙に書いているね。ピアノに向かう彼女は、堂々としたものだっただろう。ぼくが出会う前のクラーラ、その演奏も聴いてみたかった。拍手に困惑した表情は、きっと可愛いかっただろうなあ。
 一方のぼくは、買ってもらったピアノに夢中になったが、学業もおろそかにしなかった。本を読み慣れていたから、退屈な学校の教科書や課題程度を読みこなすのは朝飯前だった。もちろん、本は好きなものを読むにかぎるけどね。父が営む書店、父自身の蔵書には興味をそそるものがたくさん並んでいた。文学の世界もぼくの心を惹きつけずにおかないものだった。 どうして、世の中にはこんなに夢中になれるものがあるんだろう。あの頃は、そんな疑問を浮かべる暇もないほど、没頭していたっけ。
 10代のはじめに作曲した、オラトリオ「詩篇第150篇」というのがある。聖マリア教会でオラトリオが演奏された折に、ピアノ伴奏をさせてもらってたいそう感激した。大いに刺激を受けて、自分で詩を作って「序曲と合唱」という題名をつけた。これら大管弦楽つきの大作に挑んだのは、いかにも怖いもの知らずの子ども。我ながら微笑ましい。
 ピアノのほうは、練習のかいあってツヴィッカウでは知られた存在になり、ギムナジウムの演奏会で大勢の前で演奏するようになった。15才には指導してもらっていた先生から卒業、その後は独学で励み、市の音楽監督を務めたマイスナー先生にチェロとフルートを習いはじめた。
 そうそう、ここにもう一 つ書いておきたいのが、12才のときに学生オーケストラを結成して指揮もしたんだよ。ナポレオンのロシア遠征の往復路になり酷い目にあったこの街も、この頃には復興して音楽文化の花が咲きだした、そんな活気も追い風になったようだ。後年の指揮者として音楽監督としての能力に欠ける、という評価は甘んじて受ける。しかし、少年時代にはこんなことができた。ここで言いたいのは、音楽に情熱を燃やしはじめた頃は、行動的で組織をまとめる能力は十分であり、おとなたちからも一目置かれていたことである。
 再び、文学に話を戻すとしよう。ぼくにおいての「文学」は、クラーラの「音楽」と同じく、生まれた時からあったもの。父ばかりか、母のほうもレッシングという文豪を生んだ家系とつながりを持つ家の出なのだ。翻訳や著述もした父、詩を書く母。本に囲まれて育ったから、成長に伴って言葉は湧き出るがごとく、だったんだ。ライプツィヒで発刊した「音楽新報」の下地とも言えるね。詩や劇、スケッチ風のものを書いたり、気に入った詩人の詩を選んだ詩集を編んだりした。興味のおもむくままたくさんの本を読み、考えることは楽しく、時間が経つの も忘れて夢中になった。父はそんなぼくを認めて、刊行していた「全民族・時代著名人物図像誌」にも文章を書かせてくれたんだよ。
 16才には、大きな出会いがあった。学生オーケストラの独奏者・指揮者として「夕べの音楽会」を開くようになったぼくは、音楽愛好家のカールス家に招かれるようになった。その演奏会で、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの室内楽を聴いて、深い感銘を受けた。気心の知れた人たちの集まりで、温かい雰囲気だったこともを思い出すよ。
 カールス氏のような医師、また実業家、弁護士、商人といった、市民階級に属する人々の音楽への関心が高まり、私的な集まりで演奏する、というのは定着しつつある習慣だった。王侯貴族のものだった音楽は、ぼくが生まれた時代には市民の手にあった。音楽も、ほかの芸術のようにロマン主義の流れの中で広がり、多くの人々に必要不可欠なものになりつつあった。

 カールス家の人々との出会いは、ぼくの音楽家としてまだ卵にもなっていない頃だった。気ままに気楽に過ごした日々、カールス夫人アグネスに憧れを抱くようになる。
そのことについては、また次回。



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