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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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主(あるじ)が呼ぶので

16/10/29 コンテスト(テーマ):第120回 時空モノガタリ文学賞 【 平和 】 コメント:2件 秋 ひのこ 閲覧数:815

時空モノガタリからの選評

子供の可愛い笑顔や、他人(夫)に養われることの快適さと引き換えに、どこかモヤモヤとしたものを感じてしまう主婦の気持ちがよく出ていると思います。ゆるりとしながらも切れ味の良い文体と、夫や子供がヒトでなくなってしまう描写に独特な魅力がありました。確かに乳幼児の世話はやはり大変なことなのでしょう。子供の笑顔に癒されることはあったとしても、この時期の母親が「隷属」と感じてしまうのは無理ないのかもしれません。夫が快適に暮らせるように家事を完璧にこなし、子供の世話もきちんと行う主人公は、実際には普通の母親や妻なのでしょう。そんな常識的な人間が、内面的には家庭という枠から距離を置き、それらを冷徹なまでに観察してしまうところに不思議なリアリティを感じました。生物としての子供と母親を俯瞰するような描写などに個人の感情を超えた普遍性があるので、やや毒を含んだ内容も嫌味でない内容に仕上がっていると思います。 

時空モノガタリK

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 時計の針が午前0時を指す頃、犬が帰ってきた。と、思ったら、夫だった。
 夫が犬の姿で帰ってきた。
 「どうしたの、その」と言いかけて、言葉に詰まる。うん? と疲れた顔で見上げてくる夫は、どこをどう見ても、犬だ。
 ごはん? お風呂? と聞くと、「風呂」と返ってきた。
 夫のことを考えながら、夕飯を温めなおす。だが、それも長くは続かない。アノ声が私を呼ぶ。私は電子レンジに煮物を入れたものの、ドアを閉めてスイッチを押す2秒を惜しみ、ベビーベッドにすっ飛んでしがみついた。
 歯のない粘着質な口を開けて野獣のように泣き喚くコレが、現在の私の世界のすべてである。夫が犬になったことは、この際どうでもいい。
 抱き上げてあやしていると、夫が風呂から出てきた。横目で見ていると、器用に鼻先で冷蔵庫を開け、ビールを出している。夫に気を取られたことを窘めるように、ソレの声が一段と大きくなった。
「今日も盛大だね」
 苦笑いが滲む声で夫がこちらを一瞥する。
 ごめんね、と条件反射で謝り、片手を伸ばしてレンジのスイッチを押した。

 もう何ヶ月もまともに眠れていない。
 鉛が垂直に落下するかのごとく眠りに落ちた途端に、びよんと引き戻された。アノ声に。
 ああやめて。ほんと、お願いだから。
 時計を確認する。3時。さっき確認した時は2時半だった。これは隷属だ、と最近とみに思う。寝るな、食うな、オレのこと以外何もするな、オレのことだけを考え、オレだけを見ろ。
 声の大きさに、寝室で眠る夫と隣近所への焦慮が足元からせり上がる。その胸の内を見透かすかのように、余所見をするな、俺はここだと一層声を上げてくる。
 夫を起こさないでくれと願う反面、夫が起きてきて欲しい、とも思う。最初の頃は様子を見にきてくれたが、続くと「頼むよ、俺、明日大事な会議なんだ」とか言うようになり、やがて朝までがんとして部屋から出てこなくなった。
 夫は優しいし、良い人だ。いや、これからは、良い犬と言うべきか。
 たまに早く帰ってきた日はコレと遊んでくれるし、休みの日は買い物につきあってくれる。気まぐれに料理もしてくれる。何より、毎日遅くまで外で働き、何不自由ない生活を無償で提供してくれる。

 無償で?

 考え、私はおもちゃひとつ落ちていない薄暗い居間をぼんやり見やる。
 家事はすべて完璧にやっている。夫が気持ちよく生活できるように。コレの世話だって、実質ほぼすべてをひとりでやっている。夫がコレの下の処理をしているのを見たことがないし、熱が出ても、原因不明の発疹が出ても、面倒で理解不能なことはすべて、極めて上手に悪人になることなくかわせる器用なひとだ。
 いつもありがとう、と言ってくれるし、衣食住を他人の金で賄っている以上、これがフェアなのだと思う。タダほど、高いものはない。
 
 朝晩問わず泣き叫ぶコレには、思考能力を奪われる。
 ああ、確かに私の頭の中はアナタのことでいっぱいですよ。満足ですか。
 先日、ついに近所から苦情がきてしまってからは、なおさら怖くてたまらない。
 昼間、誰もいない部屋でコレと対峙している時にふと想像する。
 こんな小さな生き物。
 主張だけは一人前のくせに、自分ひとりでは何ひとつできない無力で無能な生き物。腹の中に10ヶ月もいたくせに、出てきても尚、食事や排泄、挙句睡眠まで他人の手を借りなければまともにできない未熟な生き物。こんなモノ、窓カラ片手デ落トセル。掃除機デごるふぼおるノヨウニ打チ上ゲタリ。冷蔵庫ニダッテ、洗濯機ニダッテ、入ッテシマウウウウ。
 ふふ、と笑みがこぼれる。
 何がオレだけを、だ。本当に「属して」いるのはどちらか、本当に「力」を握っているのはどちらか、思い知らせてやろうと思えばいつだってできるのだ。
 アナタの甘えた平和を守っているのはこの私で、夫との平和な家庭を守っているのも私。ご近所との平和を保とうと必死なのも私。
 それを壊すも壊さないも、私次第ということを知れ。

 珍しく早く帰宅した夫が、アレと遊んでいる。
 座布団の上に転がしたアレに夫が上からぬっと顔を寄せると、ソレはゲゲゲと笑った。夫も笑ってソレの顔をペロペロなめた。
 ずるい。動物なら好かれるに決まってる。でも、アレは私にだって笑ってくれるのだ。ごく、たまに。気まぐれに。
 私は沸騰した鍋の中の味噌汁を見つめながら、考える。
 あの微笑で、私は「力」の行使を諦める。まったく、生き物とはかくもよくできている。馬鹿みたいだが、ゲゲゲと腑抜けた顔で笑ってくれることで、救われる。案外、脳も心も巣食われているだけかもしれないが、幸福を感じてしまうのだから仕方がない。
 早々に犬に飽きたソレがぐずぐず言い始める。
 私は自嘲気味に口の端を引く。味噌汁がぼこんと泡を吹いた。


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このストーリーに関するコメント

16/11/08 そらの珊瑚

秋 ひのこさん、拝読しました。

乳児のお世話は本当に大変です。
私にも経験がありますが、睡眠不足が本当に辛い…。
ブラック企業に肩を並べるほどではないかと思われるような過酷な労働ですが、
可愛いさと期間限定なのでなんとか乗り切れるというもの。
そのさなかでしたら、夫が犬になったとしても、さほど驚かないのかも(?)
鋭い視点にハッとしながらも、とっても面白かったです。

16/11/11 秋 ひのこ

そらの珊瑚さま

返信が遅くなってしまってごめんなさい!
母親の暗い暗い部分なんて、ちょっと、いえかなりキワどい内容で、敬遠されるかな、誰も見たくないし触れたくないかな、と心配しながら書きました。
それから、「子どもがすべて」というその閉鎖感、そのおかしさ(クレイジーという意味で)を表現するために、「夫が犬になっても気にしない」という精神状態にしてみました。
(実は、「赤ちゃんの笑顔で救われる」の部分はそのフォローのために付け足したようなものです(汗))

コメントありがとうございます。とても光栄で、嬉しかったです。

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