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ポテトチップスさん

20代の頃、小説家を目指していました。 ですが実力がないと自覚し、小説家の夢を諦めました。ですが最近になって、やっぱり小説家の夢を追い求めたい自分がいることに気づきました。久方ぶりに、時空モノガタリ文学賞に参加させて頂きます。 ブログで小説を書いてます。http://www.potetoykk.com

性別 男性
将来の夢 太宰治賞もしくは北日本文学賞で最終選考に残ることです。
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グラスに残る唇跡

16/10/11 コンテスト(テーマ):第120回 時空モノガタリ文学賞 【 平和 】 コメント:0件 ポテトチップス 閲覧数:542

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 土砂降りの雨が降る夜、今夜は客など来ないだろうなと諦めかけていると、ドアを開け中に入ってくる客がいた。
「いらっしゃい!」と、順子が笑顔で迎え入れる。
 室井という名の常連客の男は、カウンターの中央の椅子を引き、スーツの上着を脱ぐと、それを椅子の背もたれにかけて椅子に座った。
「ビールちょうだい」
「はい。ありがとうございます」順子はしゃがんでコールドテーブルから瓶ビールを1本取り出し、手際よく栓抜きで王冠を抜くと、グラスにちょうどいい塩梅の泡加減で注ぎ、それをカウンター席に座る室井の前に置いた。
 グラスに入った冷えたビールを一気に喉に流しこんだ室井は、「うまい」と小さく口にする。
 順子は空になったグラスにビールを注ぎ足し、「もうすぐね」と言った。
 室井は何のことかと一瞬頭を巡らせるように小首を傾げたあと、
「何が?」と聞いてきた。
「定年」
「ああ、そのこと。今月いっぱいだよ」
 室井は店の壁に掛かっている日付だけのカレンダーに顔を向け、残りの日数でも数えているのか、右手の指を折り曲げてから、
「残り8日」と、順子に向けていった。 
 順子は室井の前にお通しの小鉢を置き
「定年後の予定は決まった?」
「何にも」
「まだまだ元気なんだから、何かすればいいじゃない」
 小さく頷いた室井は、両手で脂の滲み出た顔を擦った後、腕を組んだ。
「年金で男1人、細々と暮らすさ」
「あら、室井さんらしくないじゃない。私の知ってる室井さんは、人に親切で活気のある人よ」
 室井は鼻でため息をゆっくりと吐き、顔を左右に小さく振って、
「俺の残りの人生は寂しい人生さ」と、自嘲するかのように言った。
「どうして?」
「長年連れ添った嫁は男と蒸発するし、息子は非行に走って家を飛び出たきり行方知らず、娘も16歳で妊娠して男と駆け落ち・・・・・・」
 室井は寂しそうな目をカウンターの上に落とした。
 室井が家族の話を順子にするのは今回が初めてではなかった。室井から聞かされる度に、なぜこんなに人の良い人なのに、家族は室井の傍から離れて行ってしまうのかと、順子は不思議でならなかった。きっと家族を繋ぐ力が無い人なのかもしれないと、順子は口には出さないが思った。
 顔を赤らめた室井が会計を済ませ店の外に出た。見送るため順子も傘を持って外に出たが、雨は止んでいた。
「雨止んで良かったわね」順子は言った。
「うん・・・・・・」
「また飲みに来てくださいね」そう言ったすぐ後に、順子の唇に室井の唇が合わさった。
 唇を離した室井が照れ恥かしそうに、
「俺と交際してくれないか?」と言った。
 順子は嬉しかったが、考えときますとだけ言って、店の中に戻った。
 店の中で皿を片付けながら、次に室井が店にやって来たら、交際の申し出に対する良い返事をしようと決めた。
 室井の突然の告白から3ヶ月が過ぎた。順子は室井が店にやって来るのを待っていたが、あれから一度も店にやって来ることは無かった。
 2月に入り東京は雪が降ることは無かったが、とても底冷えする寒い日の夜、店のドアが開き室井が中に入ってきた。
「室井さん・・・・・・」
 順子は久々に室井が店にやって来て、嬉しい気持ちで胸が高鳴った。
 室井はいつもの席に座るとビールを注文し、グラスに注がれたビールを一気に飲み干した。
 順子は室井の方から話してくれるのを待っていると、室井は口をひらいた。
「俺、北海道に行くことになったんだ」
「えっ・・・・・・」
「定年退職を迎えてから、急激に状況が変わったんだ」
「状況って?」
「男と蒸発した嫁が、8年振りに帰ってきたんだ。許すつもりは無かったが、重い糖尿病を患って男に捨てられた嫁を、追い返すことが俺にはできなかった。それに嘘みたいな話に聞こえるかもしれないけど、行方知らずだった息子と娘も突然帰って来たんだ。息子は暴行事件にあって半身不随の体、娘は離婚して7歳と3歳の孫を連れて帰って来た。俺のもとに帰ってきた家族を、もう一度守ってやろうと決めたんだ」
「なぜ、北海道に行くの?」
「北海道で退職金を使って牧場を経営することにしたんだ。東京にいたらまた家族が俺の傍から離れて行く気がしてさ。大自然の中で暮らしたら、平和な家庭が築けるんじゃないかと思って、それで北海道に移り住んで牧場をやろうと決めたんだ」
 室井は1時間くらい店にいた後、お別れの言葉を順子に言って店を出て行った。
 客がいなくなった店内で、順子は心寂しい気持ちに浸った。
 室井が言った、『大自然の中で暮らしたら、平和な家庭が築けるんじゃないか』という言葉が、いつまでも順子の頭の中で繰り返された。
 室井さんと平和な家庭を私も築いてみたかったなと、順子は名残惜しく感じ、室井が飲んでいたグラスに残る室井の唇跡に、そっと唇をつけた。


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