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黒谷丹鵺さん

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甘い記憶の消滅と裏切るリアル

16/08/25 コンテスト(テーマ):第116回 時空モノガタリ文学賞 【 裏切り 】 コメント:4件 黒谷丹鵺 閲覧数:838

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歳の差が縮まることは決してない。
そんなことは最初からわかりきっていた。
私は彼女から目をそらし、今夜ここに来たことを後悔した。

大学時代にバイトした画廊の女主人は、品の良い未亡人だった。
彼女はほっそりと美しく、優雅な物腰とやさしい口調に好意を抱いたが、惹きつけられていたのは私だけではなかった。
下心を隠して近寄る者、あからさまに誘う者、それとなくチャンスを窺う者、遠くからこっそり眺める者……彼女の周りには花に群がる蝶のように男たちが集まった。
私のような若僧が出る幕はなかったが、彼女が誰の誘いにも応じないことが唯一の救いだった。
オーナーと学生バイトという関係が変わったのは、雷雨に閉じこめられた夏の宵。
口では駄目と言いながら彼女は私の背中にしなやかな指を這わせ舌を絡めてきた。どこまでも白くやわらかい肌に私は溺れた。
やがて広告代理店に就職した私は彼女に求婚したが、返事は保留された。
私は当時22歳で、彼女は37歳。15歳年上の女性と結婚したいのだと言うと、誰もがやめておけと言った。
郷里の親が、血相を変えて上京してきた。
だが「実際に彼女を見たらわかってくれるはず」と思いこんだ私は画廊に案内した。
身を引いて欲しいと涙ながらに訴える親に慌て、必死で取り繕う私に「終わりにしましょう」と彼女は背を向けた。
私は諦め悪く付き纏ったが、ある日いきなり画廊は閉められ、マンションも引き払って彼女は姿を消した。
都会の雑踏を歩きまわって探し、身も世もなく泣いて泣いて、そして私は諦めた。

彼女のいない東京で暮らすことに耐えられず、仕事を辞めて実家に戻った。
小さな印刷会社に職を得て、PCと向きあって業務をこなした。次第に仕事が楽しくなり、地元の旧友から誘いがかかって遊ぶ機会も増え、思いのほか充実した日々が続いた。
女性との交際には消極的だったが、27歳の年に親の勧めで見合いした。相手の屈託のない明るさに惹かれ結婚を決めた。
妻は口数が多く喜怒哀楽がはっきりしている。彼女とは正反対の性格だ。三人の子を産んで妻は強さを増し、私は尻に敷かれ気味だが、それはそれで幸せだった。
35歳の年、ある商業デザインのコンテストで入賞した。指名の注文が急に増え、忙しく働いているうちに少しは名の知れた存在になってきた。
二年後、私は思い切って独立することにした。

彼女から電話があったのは、そんな時だった。
「お久しぶり」
やわらかなアルトに懐かしさがこみ上げた。
要件は仕事の依頼で、彼女は芸術関連団体の理事をしているという。エレガントな話し方は少しも変わらず、妻のように私の話を遮ったり揚げ足を取って笑うことなど絶対ない。
幾度か電話で打ち合せするうち会ってみたくなり、出張の名目で新幹線に乗り込んだ。
妻を裏切るつもりなどないが、正直なところ、場合によってはやむなしと思っていた。

青年のように胸を高鳴らせて約束のレストランに着くと、既に彼女は来ていた。
「すいません、お待たせして」
席に案内されるなり頭を下げた。
「あら、時間通りよ」
くだけた口調にホッとして顔を上げると、鮮やかなピンクの唇が目に飛び込んできた。こんな派手な口紅を使う人だったか……と、彼女の全体像を見た瞬間、私は絶句してしまう。
むっちりした二重顎に豊満な胸とぽっこり丸い腹部、純白のスーツがはちきれそうだった。
「どうしたの?」
にっこり笑いかける顔は頬がたるみ、ほうれい線が深く刻まれている。
「いや、なんでも……」
私は無理に愛想笑いを浮かべて席に着いた。
ワインが運ばれてきて、彼女は厚化粧に皺を寄せてソムリエと会話を交わす。
「乾杯」
グラスを差しだすその指は、白くころころした芋虫のようだった。
彼女に気取られてはいけない。機嫌を損ねてはいけない。私は今後の仕事への影響を考えて平静を装い続けた。


こんな変わり果てた姿など見たくなかった――理不尽とわかっていながら、こみ上げる思いを抑えきれない。
彼女は52歳なのだ。以前と変わらぬ美しい姿でいることを期待した私が悪い。特別に老けているわけではなく、その辺の50代のおばさん達と同じなだけではないか……。
だが、もし彼女と結婚していたのなら、日々緩やかに老いていく姿を自然に受け入れられたかもしれない。

「会えて良かったわ」
支払いを済ませて外へ出た時、彼女は微笑んで言った。
「身を引いたのは間違いじゃなかった」
私は聞こえないふりをして彼女のためにタクシーを止めた。
「ご検討下さい」
持参した資料を渡し笑顔で見送った。

美しかった彼女の記憶は上書きされて消えた。
よく夫婦が若い頃の写真を飾っているのは、老いても若く素敵だった頃の伴侶の姿を忘れぬためなのかもしれない。
帰ったら新婚時代の写真をデスクに飾ろう……私は妻を思った。


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このストーリーに関するコメント

16/08/26 あずみの白馬

拝読させていただきました。
時間が過ぎることの冷淡な現実を想わずにはいられませんでした。
思い出は歳をとらない。よく聞く言葉ですが、主人公にはなおさら心に響いたと思います。
昔のことは懐かしむだけにしておくのがいいのかも知れませんね。

16/08/26 黒谷丹鵺

あずみの白馬様
コメントありがとうございます。
人間は他の生き物に比べて青年期が短く、老いてからの時間の方が長いんですよね。だからこんな喜劇は、わりと昔からありふれた出来事かもしれません。
もちろん見た目で人の価値が決まるものでは絶対ありませんが……

16/09/10 クナリ

彼女の最後の言葉に、深い意味を感じてしまいますね……。
年を取って見た目が変化していくことは、人間的でいいことであるとも思うのですが、整理できる感情ばかりではありませんよね。
一人称で語られる主人公よりも、むしろ限られた言葉から彼女の心情がより鮮やかに感じられ、彼女のための物語のような気さえしました。

16/09/12 黒谷丹鵺

クナリ様
コメントありがとうございます。
私も女性ですので「なにが場合によってはやむなしだ」などと主人公につっこみを入れながら書いた次第です。彼女の心情は描かなかったのですが男性よりはるかに深く揺るぎない思いがあったことに設定しておりました。クナリ様に感じ取っていただけて嬉しく思います。励みになりました!

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