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吉岡 幸一さん

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【水の家】

16/08/02 コンテスト(テーマ):第115回 時空モノガタリ文学賞 【幽霊 】 コメント:3件 吉岡 幸一 閲覧数:735

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 昨夜から降りだした雨は二十四時間たった午後十時を過ぎても降り続いていた。台風はまさに町を直撃していた。あと一時間もしないうちに台風の目に入るだろうと、NHKラジオは紳士的な口調で繰り返している。
 川沿いに一人で暮らす老人は気が気でなかった。ちょうど十年前にやってきた季節外れの春の台風のとき、川が氾濫し、床上浸水を経験したからだ。そのとき隣の木造家屋は倒壊し、家の下敷きになった老婦人が亡くなっていた。老人とその老婦人は密かに第二の人生を誓い合った関係だった。独立した息子も嫁いだ娘もそのことは知らなかった。老婦人も一人暮らしだったし、家族にも老人との関係については何も話していなかった。
 いまでは老婦人の暮らしていた場所は瓦礫が取り除かれ、砂利がひきつめられた空地になっている。想い出につながるようなものは何も残されていない。木造平屋の屋根に叩きつける雨の音と砂利のうえに打ちつける雨の音が、老人の深い想い出の底で混ざり合って聞こえていた。
 また電話が鳴った。これで三度目だ。取る前から電話の相手はわかっている。最初の電話は長男からだった。次は二男から、今度は末の娘からに決まっている。様子を案じて電話をかけてくるのだ。心配なんかいらない。この台風で家がつぶれて死んだって構わない。むしろ死んだ方が幸せかもしれない。あの世であいつが首を長くしてまっているんだかならな。
 老人はそんなことを思いながら受話器をとると、相手がなにか言う前に「心配ない、このくらいの台風でいちいち電話なんかしてくるな」と、一方的に言うとすぐに受話器を置いた。
 窓に大粒の雨がぶつかる音が続いている。カーテンを開けて外を見ると、合羽を着た数人の男たちが懐中電灯を片手に走っている。まだ川はあふれていないようだ。サイレンが町役場のほうから鳴りはじめた。拡声器をつかって何かを叫んでいる人がいるが、雨音にかき消されてよく聞こえない。
 誰かが激しくドアをたたいた。鍵のかかっていないドアは開けられヘルメットを被った消防隊員が玄関先まで入ってきた。
「はやく逃げてください。避難命令がでました。間もなく川が決壊します。あふれてきます。おじいさん、大丈夫ですか、歩けますか。いそいで」
「わしのことはほっておいてくれ、十年前の台風だって死なんかった、今度も大丈夫じゃ」
「十年前と今回の台風は違います。今回のほうが大きいんですよ。さあ、わがままを言わないで避難しましょう」
 説得する間が惜しいと思ったのか、隊員は老人を力ずくで背負うと外へ駆け出した。老人は抵抗してもがいたが、鍛えられた男の力にはかなわなかった。
「ばかやろう、お前のような子供の世話にはならん。おろせ、おろせ」
 玄関を出た途端、土手をこえて水が流れ込んできた。水は一気に膝の高さまで達した。「ここは窪地だから水が集まってくるんです」隊員は老人を落とさないように必死に足を踏ん張った。水の勢いはつよい。
 突然、本当に突然、雨が止んだ。そして雲が裂け、その切れ目から丸い月が顔をだした。風は止み、とくとくと水の流れる音だけが静寂の内側で響いた。月の光は闇をけした。台風の目に入ったのだ。
 消防隊員は老人を背負ったまま立ち止まった。水は流れ込んできているが、月の光に照らされた水の幻影を見て、逃げることを忘れているかのようであった。老人は隊員が立ち止まっている間、池のように水がたまった隣の空地をみていた。普通ならば泥水で汚いはずなのに、空地の上に溜まった水は不思議に澄んでいて透明だった。鏡のように月の姿を写している。
 一瞬、懐かしい景色がよみがえる。倒壊したはずの老婦人の家が、さかさまに水に映っている。 水の上に家はない。しかし水の中には倒壊する前の家の姿が写されていた。玄関のドアが開き、亡くなったはずの老婦人がさかさまの姿であらわれた。「いきなさい、いきなさい」と、老人に向かって手を前後に振りながら繰り返している。
「わかったよ、・・・避難するから」
 老人は水のなかの老婦人に向かって声をあげた。家は水の中で淡く輝きながら揺れて、老婦人は静かに微笑んでいる。
 消防隊員は老人の声で我に返ると、一度ふり返って首を振り、驚いたように駆けだした。じきに台風の目は通り過ぎ、また激しい風がふき、滝のような雨が降り出すことだろう。その前に早く安全な場所に行かなくてはならない。隊員は水を蹴って進んだ。
「少し会うのが先になりそうだよ、ごめんな」
 水のなかの家から遠ざかりながら老人はつぶやいた。遠ざかるほどに家は水の中で溶けていく。隊員の背中は濡れていてもあたたかい。空はつかの間、月をみせてくれる。きっと老人が安全な場所に着くまで、月は町を優しく照らしてくれることだろう。


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このストーリーに関するコメント

16/08/28 日向 葵

吉岡幸一様

拝読させていただきました。
頑固な老人と周囲の人間との駆け引きが印象的でした。
また、雨に浮かぶ情景描写が鮮明で素晴らしいと思いました。(^^)

16/08/28 日向 葵

吉岡幸一様

拝読させていただきました。
頑固な老人と周囲の人間との駆け引きが印象的でした。
また、雨に浮かぶ情景描写が鮮明で素晴らしいと思いました。(^^)

16/12/29 吉岡 幸一

向日 葵様
コメントをいただきありがとうございました。
心より感謝いたします。

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