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蒼樹里緒さん

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性別 女性
将来の夢
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涙の止め方を忘れた女-ダンス-

16/07/29 コンテスト(テーマ):第113回 時空モノガタリ文学賞 【 ダンス 】 コメント:0件 蒼樹里緒 閲覧数:647

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 あるところに、涙の止め方を忘れた女がいた。女は、嬉しいときも悲しいときも悔しいときも、ひたすらに泣き続けていた。
 ある日の昼下がり、川原を歩いていた女は、土手の高架線の下でテントを見かけた。ビニールシートや適当な資材で組まれた雑な作りで、そこの住人らしい男も見た。伸ばしっ放しの白髪は、蛇のようにのたうって乱れている。全く洗っていないのだろう、色褪せた服も、ところどころ破れてボロボロだ。
 高架線の下は広い日陰と草や土で覆われ、それらの匂いの濃さが、男の体臭も多少打ち消しているようだった。
 男の皺だらけの横顔は、とても楽しげだ。テントのそばに座り込み、両手で何かを軽やかに叩いている。
 気になった女は、はらはらと涙を流したまま、男に尋ねてみた。
「あの、いきなりすみません。何をなさってるんですか」
「ピアノを弾いてるんですよ」
 気を悪くもせず、男は穏やかに答える。
 よく見れば、確かに彼の足元には、細長い段ボールの厚紙が一枚置かれていた。表面には黒いペンで、鍵盤のような模様がびっしりと描かれているのだ。それを、本人は流麗に指先で叩き続ける。
「僕は昔はね、ピアニストだったんですよ。バーで働きながら弾いたり、プロとしてコンサートにも呼ばれたりして。今は色々あって、もう弾けなくなってしまった」
 過去の栄光を懐かしむように、男は目を細めた。
「それでも、やっぱり好きなものは好きだから、やめられないんですよね。こういうかたちでも、気ままに弾き続けたいと思ってるんです」
「悲しくはないんですか、淋しくはないんですか」
 泣きながら問いかける女にも、ええ、と男は微笑んでうなずく。
「あなたが泣いてるのは、悲しいことがあったからですか。それとも、淋しいことがあったからですか」
「わかりません。涙の止め方を、いつの間にか忘れてしまったんです」
「そうですか」
「でも、今はきっと、あなたのまっすぐなお気持ちにじーんとして、泣いてるんだと思います」
 座って聴いてもいいですか、と女が訊けば、どうぞ、と男は快く促して。雑草の繁る地べたに、女は腰を下ろして膝を抱えた。
 とんとん、ととん。とととん、とん、とん。
 男の奏でるリズムはなめらかで、途切れることなく風に乗る。時折、首や身体がゆらりゆらりと動くのも、自然に身に着いた演奏者としての癖なのだろう。高架線を電車が通っても、風が吹いて川面がさざめいても、彼の指先は軽快に、段ボール紙の鍵盤の上で踊り続けた。手だけが別の生き物にでもなったかのように。
「何を弾いてらっしゃるんですか」
「僕がピアニストだった頃、一番好きでたくさん弾いた曲です」
「音は聴こえますか」
「ええ。こうしてれば不思議とね、頭の中に響いてくるんですよ。自分の弾いてた、グランドピアノの音色が」
 ぽろろん、ぽろん。ぽろろん、ぽん、ぽん。
 男の言葉を聴いて目を閉じると、女の頭の中にも、その響きが伝わってくる感覚がした。
 彼が鍵盤をひとつずつ叩くたびに、女の眦からも涙が一滴ずつこぼれ、地面に染み込んでいく。
 ――なんて優しくて、あたたかい音なんだろう。
 胸の奥にじんわりと熱が拡がっていくのを、女はしみじみと感じ取る。
 鍵盤上の指先舞踏会は、男の気が向いたときに、いつでも開催されているのかもしれない。
「よかったら踊ってくれますか、お嬢さん」
「ごめんなさい。私、ダンスはちょっと苦手なんです」
「それは残念」
 やがて、男の手が止まると、女は立ち上がって拍手を送った。
「素敵な演奏でした、ありがとうございます。それから、急にお邪魔してしまって、すみませんでした」
「いえいえ。僕も久々に他人様に聴いてもらえて、嬉しかったですよ。ありがとう、お嬢さん」
「それじゃ、私はこれで」
「ええ、さようなら」
 手を振って見送る男に、ぺこりと頭を下げ、女はまた川原を進み始める。
 泣くときにいつも訪れる気疲れは、今は少しもやってこない。

 男の純真な演奏を思い出し、女の指先も真似をして、空中でかすかに踊るのだった。


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