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リンリンさん

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ハンセイの味

16/07/13 コンテスト(テーマ):第112回 時空モノガタリ文学賞 【 弁当 】 コメント:0件 リンリン 閲覧数:3066

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 炒りつけるような熊蟬の鳴き声に莫迦にされているみたいな朝、サチコが金魚に餌をやろうとしていた。千切りにした大根を俎板の上に置き去ったサキエが、今日の昼頃にヤスオが弁当持ちで帰って来ると、受話器先のサチコの祖母に伝えていた。それを耳にしたサチコは金魚の世話を放ったらかして朝食も摂らずに学校へと急いだ。
 ヨシダという表札の掛かった三階建ての玄関先にいる厳かなブルドックに恐れをなして、いつも逡巡としているサチコだったが今朝はそれが未視感とでもいうように、平気でその前を駆け抜けた。

 サチコが息を切らせて学校から戻ると、ランニングシャツとパンツ姿のヤスオが胡座をかいて扇風機に噛(かぶ)りつきながら団扇(うちわ)を泳がせていた。サチコはランドセルをその場に脱ぎ捨ててヤスオの胸に飛び込んだ。
 ヤスオは、久しぶりやのう、サチコ、と云って抱き締めた姪に頰擦りをした。ヤスオの顎やそこいらに散らかっている無精髭がサチコにはぞわぞわとして肛門の辺りが縮こまった。ヤスオは独り占めにしていた気休めの風をサチコにも浴びさせようと扇風機の視界を広げた。

「オッチャンが弁当持って帰ってくるって、今朝、オカンとバアチャンが話してたみたいやけど、どんな弁当なん?」
 サチコがそう云うとヤスオは俄(にわか)に表情を曇らせ、卓袱台に置いてある剣菱の一升瓶の首を軽々と片手で掴んで湯飲み茶碗に半分ほど注(つ)いで一気に呑んだ。ランニングから食み出したヤスオの隆々とした筋肉に貼りついた光と影が草蜉蝣の半透明な翅(はね)のように瞬(またた)く。ヤスオは姉のサキエがこんな小娘に我が醜態を曝したのではないかと訝しんだ。
 これは聞いてはいけないことだったのかと齢(よわい)十歳になるサチコにも感じられるほどヤスオは眉間に皺を寄せていた。だがヤスオの目が暴れまくっている時の、武闘派として町で名の通った三人組をも即座に傅(かしず)かせてしまうほどの眼力(がんりき)とはかなり隔たりがあったのでサチコはそんなに気にはならなかった。鴨居に吊るされている風鈴が冷たい音を響かせる。

「サチコは昔から弁当が好きやったのう。サチコの友達の弁当はどんなんやった? おもろいのんあったけえ?」
 ヤスオにそう問われ、これまでに目にしてきた弁当の数々をサチコはあれよこれよと巡らせた。
「ヒデオの日の丸は、お決まりで、金持ちのオガサワラは、ご飯とオカズと味噌汁で弁当箱が三つもあって、あ、こないだの水族館で、ヨシコは蜜柑が一個だけやった」
「蜜柑一個かあ、それは、辛(つら)いのう」
「散髪屋のタカハラなんか、紙切れ一枚しか入ってなくて、それを裏返したら、ハズレ、って書いてあった」
 それを聞くなりヤスオは剣菱を口から吹いた。

「ほんで、オッチャンの弁当の中身はなんなん?」
 友達の弁当話で悦に入ったサチコが勢い余ってそう零(こぼ)した。ランニングの裾で口を拭ったヤスオは深い嘆息を漏らした。
「オッチャンの弁当の中身は、ハンセイやな」
「ハンセイ?」
「そや、ハンセイや」
「ハンセイって、どんな食べもんなん? どんな味するん?」
「ハンセイの味のう、それは、苦くもあるし、辛(から)くもある、せやけど、不味いもんとちゃうど」
 ヤスオは湯呑みに残っている剣菱を一息に呷(あお)った。

 執行猶予つきの判決が下ったヤスオがニュートンと諍(あらが)う度に畳がみしみしと、板の間はぎしぎしと軋む。ヤスオは台所で見つけてきた蚊取り線香にマッチで火をつけて縁側でそれを燻(くゆ)らせる。
 傍らでそれを眺めているサチコは三歳の時に事故で亡くした父親の記憶が想起するのか、蚊取り線香の薫(かほ)りが鼻を掠(かす)めると、いつもどこか身の引き締まる思いがした。縁側で古新聞を広げて足の爪を切りながら煙草を喫(の)んでいる勇み肌の男にサチコは亡き父の姿を投影していた。
「サチコ、今夜、祭りに連れてったるど」
 この男はサチコの足りているものと足りていないものを知っている。
 一人ぼっちにさせた茜色のランドセルを片しながらサチコは深く頷き、今朝、金魚に餌をやっていないことを思い出した。

 サチコが慌てて鉢の中に餌を十粒ほど落とすと、光模様が万華鏡のように形を変えた。サチコは目の前にいる金魚を真似て女になろうとしている薄紅(うすくれない)の唇で一粒包むと、苦くもあり、辛くもあり、でも不味くはなかった。サチコはこれがヤスオのいう反省の味なんだと感じて舌の上でゆっくりと解かした。鉢の中の金魚はサチコの贖(あがな)いを食後の菓子にでもしようとしているかのように、サチコに向けている口を薄氷(うすらひ)のように煌めかせた。


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