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宮下 倖さん

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夏、流るる

16/07/04 コンテスト(テーマ):第111回 時空モノガタリ文学賞 【 蕎麦 】 コメント:0件 宮下 倖 閲覧数:684

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 寝てないなんて言い訳にならない。明日の会議に完璧に備えなければ。
 岩崎は血走った目を瞬かせると、資料の詰まった鞄を持ち直した。

 湿気を含んだ夏の風が襟足で遊んでほどけていく。首筋に滲んだ汗を撫でるそれを、心地よいと感じる余裕さえない。早々に帰って資料の見直しをしようと足を速めた岩崎に耳に喧騒が届いた。靴先ばかりを見ていた視線を上げると、商店街の端の広場に煌々と灯りが燈っている。人々の影がいくつも見えた。
 無意識に歩調が緩み、ぼんやりとそれを目で追っていると「こんばんは!」と声が聞こえた。驚いて声のほうに顔を向けると、青い法被を着た若い男がにこにこして岩崎を見ている。

「今、商店街でお祭りやってるんですよ。これから流しそうめんやるんで食べていきませんか?」

 唐突な誘いである。いや俺は……と首を振る岩崎に、男は半ば押しつけるようにめんつゆの入ったカップと割り箸を渡した。
「すぐそこですから」と言われ、先導するように歩き出す男の後ろを岩崎は戸惑いつつもついていく。男の勢いに気圧されたのもあるし、流しそうめんを夕飯代わりにしようかという魂胆もあった。

 小さな商店街が欠伸をしたようにぽかんと開けた広場は、思ったよりもたくさんの人がいた。わたあめやたこやきの出店もあり、子どもの楽しげな声が響く。そして太い竹を組み合わせた流しそうめんの筒の両脇には、岩崎と同様、カップと割り箸を持った人々が連なっていた。

 岩崎が筒の最後のほうにようやく隙間を見つけて体を入れたとき、「流しそうめん行きますよ〜!」という声が聞こえた。わっと歓声が沸く。
 せっかく来たのだからと割り箸を構えて待ってみるも、なかなか岩崎のところまではそうめんは届かない。これだけの人がいるのだから当然かと苦笑した時、目の前に蕎麦が流れてきた。「えっ?」と思ったが反射的に箸を出す。掬い上げてめんつゆに浸し、一気に啜った。  

 目を瞠るくらい美味かった。打ちたて、茹でたてだと言われても頷くほどの麺のコシ、蕎麦の香り。呆然としていると、また目の前に蕎麦が流れてくる。すかさず箸を出す。勢いよく啜り込む。美味さに相好を崩す。 

 そうめんが足りずに蕎麦に切り替えたのだろうか。それにしても美味い。岩崎は、適度な間隔で流れてくる蕎麦を夢中で掬い、頬張った。
 胃が満たされていくと同時に、なにかが欠けた心の隙間も満たされていくようだった。不思議と力が湧いてくる。

 そうだ、これは母の蕎麦に似ている。岩崎は透明感のある蕎麦を箸でつまんで目を瞬かせた。趣味程度ではあったが、岩崎の母はよく蕎麦を打った。実家に帰省すると必ず打ってくれた。

 腰、いでえなあ。

 そう笑いながらもいつも美味い蕎麦を打って、食べさせてくれた。ぎゅうっと岩崎の胸が絞られるように鳴いた。母の笑顔がいつもより遠い。



 もう蕎麦は流れてこなかった。流しそうめん自体がもう終わりのようで、人々は三々五々散っていく。岩崎は、法被を着た先ほどの若い男を見つけて声をかけた。

「あれさ、あの蕎麦って手打ち?」
「え? 蕎麦?」

 男は怪訝そうに首を捻る。

「ほら、最後の方はそうめんじゃなくて蕎麦だったろ?」
「蕎麦なんて流してませんよ? 流しそうめんですから」

 笑いながら去っていく男の背中を岩崎は首を傾げながら眺めた。そうめんと蕎麦を見間違えたのだろうか。いや、いくら疲れていてもそんな間違いをするはずがない。自分が食べたのは正真正銘、蕎麦だ。

 訝しげに太い息を吐いたとき、岩崎のスマートフォンが着信を告げた。画面には故郷の兄の名前が表示されている。

「もしもし?」
「孝が? いや、いがったあ。おめ、全然電話さ出ねんだもんよ」
「悪りいな兄ちゃん。ちっと忙しがしぐでな」

 つられて故郷の訛りが出る。そういえば忙しさにかまけて最近の兄からの着信を何度か無視していた。「んだが」と小さく笑った兄は、改まった調子で続けた。

「母ちゃんの三回忌だげんどな、来月の初めに決めだがら。おめ、休み取れっが?」

 あっ、と岩崎は息を飲んだ。どうして忘れていたのだろう。母を送ってまだ三年しか経っていないというのに。
 途端に先ほどの蕎麦の味が口の中によみがえってきた。気遣うように、励ますように岩崎の心に沁みた蕎麦の味が。

「休み取るよ。絶対帰っがら、兄ちゃん」
「仕事大丈夫が?」
「なんちゃねえ」

 「んだが」と笑った兄に、岩崎はもう一度「必ず帰る」と力強く言った。
 振り返れば祭りの喧騒はすでになく、人声もまばらになっていた。
 岩崎の頬を撫でるように風が吹き抜けていく。涼しいなと目を細め、ほっと息をついた。
 母の指先のような優しい風の中、わずかに蕎麦の香りを嗅いだ気がした。
 


―― 了 ――


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