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吉岡 幸一さん

性別 男性
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蕎麦屋の前で、すこし後悔する

16/06/20 コンテスト(テーマ):第111回 時空モノガタリ文学賞 【 蕎麦 】 コメント:0件 吉岡 幸一 閲覧数:714

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蕎麦屋の前でほどけた靴ひもを結ぶと春の日差しが背中にあたる。
水路の水は輝いて、浮いた水草の下でメダカの群れが泳いでいる。
麻でできた蕎麦屋の暖簾はやわらかな風に揺れ、黒塗りの壁をまえに雲が流れているよう。
立ちあがった彼は両手をひろげて背伸びをするが、通りには誰も居ず、野良猫だけが欠伸をしている。
「おいで」と、言って手招きしてみるが野良猫は知らん顔。
向かいの家の屋根には見知らぬ小鳥が三羽とまっている。青い嘴を動かしながらキュンキュン鳴いて話している。
平日の午後、さびれた商店街の裏道にある蕎麦屋の前で彼はひとり立つ。
昔は賑わっていたのだろうか。
錆びたシャッターが下ろされた店、草の伸びきった空き地、開いている金物屋の店先に置いてある鍋には埃が積もっている。
先ほどから彼のお腹は空腹を訴えている。
ショーケースもない蕎麦屋、小さな店構え、建てつけの悪そうな格子戸。
戸に手を掛ける前に内側から開く。きしむ音がどこか切ない。
「入りな」と、顔をのぞかせた白髪の老人が店の奥にまねく。着古した板前法被を着ている。
店に客はいない。四人掛けの木の机が四卓あるだけ。
机の上には七味唐辛子の入った壺と割り箸入れが置かれている。壁には十数枚の木札のお品書きが一列に並んでいるが蕎麦以外はない。
彼が黙って座ると、老人は水をコップになみなみと注いでもってくる。
「かけ蕎麦を…」
三分もかからず蕎麦が運ばれてくる。
ネギが乗っただけのシンプルな蕎麦。
醤油色の汁からは湯気が立ち上り彼の眼鏡を曇らせる。
すする麺は舌に絡みつき味わう間もなく咽に流れていく。
麺を飲み、汁を噛み、器を空っぽにして胃を膨らませる。胃の底は熱くなり骨のさきまで力が伝わっていく。
二日ぶりの食事。
仕事の依頼はしばらく来ていない。この先もあてはない。貯金も底をついてきている。グラフィックデザイナーとして独立するのを諦めて、どこかの会社に就職しようかと考えている。しかしその踏ん切りがつかない。
老人は空いた椅子に腰かけ新聞を読んでいる。客が来る気配はまるでない。
「うまかったかい」
唐突に話しかけてきた老人は返事を期待している風でもなく独りごとのように喋りつづける。
「客がきたのは三日ぶりじゃよ。この調子じゃ潰れるのは時間の問題だ。
だがな、客が来ようが来まいが、わしは毎日蕎麦をうつ。誰に食べられることがなくても蕎麦をうつ。たまにわしの蕎麦を食べにきてくれる人のために蕎麦をうつんじゃ。間違って店に入ってきた人のために蕎麦をうつ。ウマいと言われようと、まずいと言われようと、無反応であろうと関係なく蕎麦をうつ。ひたすらに蕎麦をうつんじゃ。
…なあ、わしはなんで蕎麦なんぞうつんじゃろうなあ」
彼は気のきいた言葉が返せない。寂しそうでありながら、どこか凛とした老人の言葉は彼の深い場所にしみ込んでいく。
「おいしかったです」
ようやくでた言葉は春の風のように軽い。
「ありがとな」
老人は皺だらけの笑みを浮かべると、からっぽの器をよたよたと店の奥へもっていく。背中の影は重く腰がわずかに曲がっている。
三百六十円を机に置いて店を出ると、彼はまっすぐに駅の裏を目指して歩いていく。
道を進むほどに人が増え、店が増え、賑わいが増してくる。
しっかりと結ばれた靴ひもはほどけることもなく軽やかに足は前に進む。
駅近くにはいくつものコンビニがあり、ひろい歩道をいく台もの自転車が走り抜けていく。
スーツを着た会社員、ミニスカートの女学生、ポケットティッシュを配る若い男、車のクラクションが時折響き、人々の乾いた話声が街に渦をまく。
タクシー乗り場の前で品の良い婦人が抱いた猫を籠にいれている。
真っ白な毛の猫はミューミューと甘えた声で鳴き、籠の中から空を飛ぶ小鳥をみつめている。欠伸をしながら退屈そうにみつめている。
駅裏には行列のできる立ち食い蕎麦屋がある。
オープンして日も浅いがマスコミにも取り上げられ人気がたかい。
ガラス張りの店内からは明るすぎる電球の光が外まであふれ、排気口からでる湯気が食欲をそそる。
口元をハンカチで拭きながら店を出る二人の女性の笑顔がまぶしい。
彼は数人ほどが並んでいる列の一番後ろに並ぶと、膨らんだ腹を撫ですこし後悔をする。
かけ蕎麦一杯、四百二十円。
人気のこの店で蕎麦を二杯食べたかったと、すこし後悔する。


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