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ポテトチップスさん

20代の頃、小説家を目指していました。 ですが実力がないと自覚し、小説家の夢を諦めました。ですが最近になって、やっぱり小説家の夢を追い求めたい自分がいることに気づきました。久方ぶりに、時空モノガタリ文学賞に参加させて頂きます。 ブログで小説を書いてます。http://www.potetoykk.com

性別 男性
将来の夢 太宰治賞もしくは北日本文学賞で最終選考に残ることです。
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信子の門出

16/06/20 コンテスト(テーマ):第112回 時空モノガタリ文学賞 【 弁当 】 コメント:0件 ポテトチップス 閲覧数:628

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正信は深夜11時に帰宅した。顔を赤らめ、呼気からはお酒の臭いがした。
「ただいま」カバンから取り出した弁当箱と花束を信子に手渡した。
「あら、綺麗な花束ね」
「会社の人から貰ったんだ」
「お酒は誰と飲んできたの?」
「同僚とだよ。居酒屋で定年退職を祝う会を開いてくれたんだ」
「あなた、ビールで乾杯しましょう」信子は、そう言って弁当箱と花束を持ってキッチンに向かった。
弁当箱の蓋を開けると、中は綺麗に空だった。
部屋着に着替えた正信がキッチンテーブルに着くと、信子は冷えたビールを2つのグラスに注ぎ、1つを正信の前に置いた。
「長い間、お勤めご苦労さまでした」
「おう!」
正信は一気にグラスの中のビールを飲みほした。
「定年退職を無事に迎えた事だし、これからの第二の人生は、オマエと旅行に行ったりして、人生を謳歌しようと思ってるんだ。いくつかプランを練ってるところだ」
信子は椅子から立ち上がって、引き出しから取り出した紙をテーブルの上に置いた。
正信は、信じられないと言ったような表情を浮かべた。
「私と離婚してください」
信子は、今までの我慢が一気にガス抜けしたように心がスッと軽く感じ、私はこの言葉を言うために今まで、冷えた夫婦関係を我慢してきたんだと改めて実感した。
「ちょっと待てよ! なんで離婚なんだよ。オマエには贅沢な暮らしをさせていたじゃないか!」
「確かに贅沢な暮らしはさせてもらっていたけど、仕事仕事で家庭を顧みないあなたが、私は嫌いだった。それに愛人がいたのも知ってるわ。もし私たち夫婦に子供がいたら、私は子供のためにも、離婚は我慢したと思うけど、あいにく私たち夫婦には子供が授からなかった」
正信はテーブルを叩いて、大きくため息を吐いた。
「財産分与は弁護士に依頼したわ。それと明日から私は賃貸マンションに住むから。私の荷物はもう運んであるわ」
「もう夫婦関係の修復は無理なのか? 俺が気持ちを入れ替えると言っても」
「もう無理よ。私はあなたを恨んでいるから。でもね、ここ最近、眠っているとよくあなたの夢をみるの。夢に現れるあなたは、私たちが初めて出会った頃のあなたなの。あまり女性慣れしてなくて、私の手すら握れなかったあの頃のあなた。あの時のあなたは、本当に優しい男性だった。こんなに優しすぎて、人に騙されるんじゃないかと私はいつも心配だったのよ。でも夢から目覚めると、決まって私はため息が出るの……」
信子は、グラスに残っているビールを飲みほした。
人は変わってしまう生き物だと思った。人は生きていくなかで、いらなくなった物を、まるでトカゲのように脱皮をする。
正信が生きていく中で捨てたものは、あふれんばかりの優しさと、結婚して自分の所有物となった私ではないかと、信子は何度も思うのだった。
「第二の人生の起点から、つまずいた感だな」正信は自嘲気味な感じで笑った。
「私も好きなように生きるから、あなたも好きなように生きればいいじゃない。老後は夫婦仲睦まじく生きなくてはいけないなんて決まりは、無いんだから」
正信は、笑っているのか悲しんでいるのか、どっちつかずの表情を浮かべた。
「俺の老後はダメだ。体もボロボロだし。高血圧に糖尿病予備軍なの知ってるだろ」
信子は悪戯っぽい表情で「正直に白状するわ。あなたを高血圧で糖尿病予備軍にしたのは私よ。毎食に出していたみそ汁は、あなたが食べるみそ汁と私が食べるみそ汁は、塩分が違っていたのよ。私はわざとあなたが食べるみそ汁だけ、塩分多めに作っていたの。それに、茶碗に盛ったご飯に砂糖を振りかけていたのよ」
「何のために?」
「あなたを殺したかったからかしら」
「そんなに俺が憎かったんだね。すまなかった……」
「でも……、そんな憎いあなたでも、唯一好きなところがあったの」
「何だい?」
「私が作ったお弁当を、いつも綺麗に残さず食べてきてくれたこと。35年間、私が作ったお弁当を会社に持参して、全部残さずに食べてきてくれた。夫婦喧嘩した翌日のお弁当には、あなたの嫌いな食材を入れる悪戯をするのに、あなたはちゃんとお弁当を残さずに食べてきてくれた。それは本当に嬉しかったし、心から感謝してたの」
「弁当って何でか知らないけど、残すのが申し訳なく思っちゃって、嫌いでも食べちゃうんだよな。不思議だな……」
壁時計の針が深夜0時を指した。
正信は小声で言った。「やり直せないか?」
信子も小声で言った。「もう無理よ」
「最後に、君を抱かせてくれないか?」
「あら、もう10年近くセックスレスなのに」
「君が今になって、名残り惜しいんだ」
最後に向き合って本音で話ができたことに、信子は安堵した。
35年の結婚生活にピリオドを打つが、最後の最後で、自分が愛して結婚した男の、完全には無くなっていなかった素の優しさに涙が零れた。


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