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黒森あまやどりさん

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虹に至るうた

16/06/08 コンテスト(テーマ):第110回 時空モノガタリ文学賞 【 雨 】 コメント:0件 黒森あまやどり 閲覧数:545

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 中学生の頃くらいからだろうか。
 その音が聞こえるようになったのは。

 ……ポトッ。

 耳にした時、近くで蛇口が緩んでいるのだと思った。
 水滴がこぼれ落ちるような音がしたから。
 だが付近に水飲み場らしきものは存在しなかった。

 音は日に二、三度思い出したかのようなタイミングだったが、やがて頻度を増してきた。

 ……ポト……ポト……ポト……。

 そんなはずがない、現にこうして聞こえているのだ。
 そう主張しても親や友人からの理解は得られる事はなく、奇異の目を向けられるようになった。
 他人には聞こえなかったのだ。

「ストレスによる幻聴ですね」

 耳鼻科を経て、様々な病院を転々とした挙げ句に得たのはそんな診断。
 だが幻聴という名称を得てからも手の施しようはなく、むしろ症状は進行していった。

 ……ト、ト、ト、ト、ト、ト……。

 間隔が早まり、その数がひとつふたつと数を増していく。
 のみならずある嗅覚への微かな変化をもたらした。

 それは匂いだ。
 降る直前の匂い。
 あの何んとも表現しようもない、強いていうのであればゼラニウムに似た匂い。
 それが辺りに立ち込めるようになっていたのだ。

 ああ――やってくる。
 やがてある予感めいたものを抱くようになり、現実となったのは高校二年の春。

 ザアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――。

 周囲が薄暗くなったかと思うと、堰を切ったように細い銀色の針にも似たそれが頭の上から降り注いできた。

 雨。
 大気に含まれる水蒸気が、冷却凝縮、水滴へと増大し、重力によって落下するあの現象だ。

 無論、幻覚なのだろう。
 何故なら今いる場所は学校の廊下。
 周囲を見回しても誰も突然の土砂降りに反応することなく、当たり前のように談笑したり、移動したりを続けている。

 だが私だけは違う。
 冷たい雨が容赦なく身体を襲ってきた。
 視界を滲ませ、制服を濡らし、鉛のように重く湿らせてくる。
 足元を水浸しになり、上履きが塗れ足の裏に不快感をもたらしてくる。

 あらがうこともできず、その場に呆然立ちすくみただただ震えた。

 この環境のなかで何事もないように生活し続けるのは困難だった。
 食事も、睡眠すらまともに行えないだろう。
 そしていつまで続くのかさえ不明だ。

「あら」

 近くにいた女子生徒がこちらに気づいた。

「あの子、具合でもわるいのかな」
「顔が真っ青だね」

 ちらちらと様子を伺いながら小声で言葉を交わし合っている。
 彼女たちは、雨の影響を一切受けていない。
 まるで同じ世界にはいない、苦しみも憂鬱のからも遠く離れた存在に見えた。

 ああ――。
 何故、誰も理解してくれないのだ。

 ああ――。
 だれか。

「だれか……助けて……」

 涙とともに声が溢れたその瞬間。

 あむ、しーんぎんいんざれーん♪
 じゃす、しーんぎんいんざれーん♪

 廊下の向こう側から声がした。
 場違いで、素っ頓狂、それでいてとても陽気な歌だった。

 そしてやってきたのは校内にも関わらず、空色の傘をさした人物。
 栗色の髪の少年だった。

 彼は唖然としている周囲を尻目に、黄色のレインコートで幻影の雨を弾き、赤い雨靴で幻影の水溜りをはね散らせ、スキップしていた。

 彼は『エンゲキブ』だ。
 高校演劇界の寵児として名を馳せているにも関わらず、演技訓練という名目で様々な奇行を繰り返す変わり者だ。

 彼はやがて私の前にやってくると、にこりと微笑み、傘を差し出してきた。
 私はわけもわからず受け取っていた。

「貴方はこの雨が視えるの?」
「ジーン・ケリーはさ、この撮影時に、何と三十九度の熱があったんだ」

 彼は質問には答えず意味不明なことを告げてくる。
 そして茶目っ気たっぷりに片目を閉じてきた。

「本当にすごい役者だと思わない?」

 どうやら視えているわけではないらしい。
 こうして傘をくれたのも、いつもの気まぐれのようだ。

 だが新品のビニールの匂いがするそれは、問答無用で降り注いでくる幻影の雨を遮ってくれていた。

 あむ、しーんぎんいんざれーん♪
 じゃす、しーんぎんいんざれーん♪

 少年は、また何事もなかったように調子外れな歌を再開した。
 降りしきる雨を楽しむようにスキップしながら遠ざかっていく。

「……」

 私は茫然と見送りながら、どこか救われていた。

 別に彼が何かを解決したわけではない。
 雨は相変わらず降り続いている。
 なのに先程までの絶望感はどこにいったのだろう。

 傘の縁からそっと空を見あげてみる。

 まだ雲の切れ間はなかったがそのうち止む。
 そんな予感がした。


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