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汐月夜空さん

切ない話が好きな空想好きです。 なんでもない日常がなんでもある日常に変わる物語を読んだり書いたりするのが特に好きです。 ブログの方でも小説やエッセイ、ネタなどを書いておりますので、よければどうぞ。 twitterの方は私生活も含めて好き放題呟いてますので、汐月夜空のことが気になる方フォローお願いします。 ブログ:http://ameblo.jp/shiotsuki-yozora/ twitter:https://twitter.com/YozoraShiotsuki

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甘夏の香り

16/05/23 コンテスト(テーマ):第108回 時空モノガタリ文学賞 【 甘夏 】 コメント:0件 汐月夜空 閲覧数:627

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「これはレモンですか?」
 彼女は、この香りの正体が分かっているのにそう言った。
「いいえ、夏みかんです。懐かしいね。昔、授業でやったよ。なんてタイトルだっけ?」
 冷蔵庫から麦茶を取り出して、グラスにそれを注いで彼女に渡す。彼女はありがとう、
と笑顔でそれを受け取った。
「『白いぼうし』、ってタイトルだったと思う。タクシー運転手の松井さんが経験した、夏みかんのように素敵な香りのする物語」
「素敵な香りのする物語、か。ずいぶん詩的な答えをするね」
 自分の分の麦茶も注いでから、僕は彼女の方に向き直った。彼女は目を閉じて頷いて言った。
「まあね。好きなんだ、教科書に載ってた物語。一つ一つがこの甘夏のように芳醇で、鮮烈で、輝いてた。その物語を学んだ時、自分が何を思っていたか、どんなことで苦しんで、どんなことで喜んでいたか、今はもうおぼろげで、思い出そうと思っても思い出せないことばかりだけど、それでも、その時に学んだ物語のことは不思議と忘れない」
 言われて僕も思い返す。赤い魚の中のたった一匹の黒い魚。喉が枯れたライオンの代わりに叫んだ黒ヒョウ。飛び上がった先の巨大なくじら雲。校庭で見送った影送り。トチの実モチ。髪を抜く老婆。お釈迦様の垂らすクモ。えいっ、と変わる信号機。数えればきりがない。だけど、その時僕自身がしていたことは、大人となった今となってはもう思い出せない。「なるほど」思わず口に出す。確かに彼女の言う通りだった。
「そうでしょ? 本当はこの香りが甘夏だって二人とも分かってるのに、二人とも違う答えを確信を持って言えるって、本当にすごいことだなって思う。こうしてあの時の記憶が薄くなってくると、私が生きていたのはこっちの世界とあっちの世界、どっちだったんだろう、って思うよね」
 彼女の言うこっちの世界とあっちの世界。それはつまり、物語の世界とこの世界のことを言うのだろう。大人になった今となっては、過去のアルバムの写真を指差して、僕たちは確かにこっちの世界に生きていたのだと言ってしまうのだけれど、それは結局僕たちの姿かたちであって、僕たちの心はあっちの世界を生きていたのかもしれない。
「まあね、分からなくもないよ」
 僕が同意の意を示すと、彼女はこんなことを言った。

「ねえ、なぜあの物語の中の柑橘は夏みかんだったと思う?」
「え?」
「別にあれは柑橘系ならなんだってよかったと思うんだ。伊予柑でも、グレープフルーツでも、オレンジでも、それこそ甘夏だってよかった。だけど、選ばれたのは夏みかん。その理由はなんだと思う?」
「いや、特に意味はないと思うけど。強いて言うなら、一般的だから、とか」
 僕がなんとなく言った言葉に、彼女は「そう、そうだと思う」と頷いた。
「一般的だから、作中には夏みかんが選ばれた。その方がリアリティがあるから」
「リアリティが?」
「うん。ほら、私たちって、物語の中の人物は答えを間違えない、って思いがちだよね? あるいは最初は間違えてても、作中で必ず正しい答えにたどり着く、って。当たり前だよね。だって、そうしないと物語にならないから。だけど、何の意味もなく間違えていて、作中でその人物が答えに気付けないことだって、きっとあると思う」
「間違えに気付かない?」
「そう、柑橘が本当は甘夏だったとして、タクシー運転手の松井さんがそれに気づけたか、といえば、難しいかもしれない。そして、それはレモンですか?と聞いた乗客についても同じよね。そうやって作中の人物が間違えている以上、それを外から眺めていた私たちも気付くことは出来ない」
「確かにそうかもしれないけど、それは悪いことなの?」
「いやいや、私は逆にそれが良いことだと思う。人はすぐに間違えるから。時に故意に、時に偶然に。子供に車のことをブーブーと言うように。友人の問いにうっかり知ったかぶりするように。あるいは、甘夏のことを知らない人に、これはみかんの一種と伝えるように。この世界は優しさと強がりで出来ているの。なんだかとても、人間くさいでしょう?」
「……まあね」
 僕は彼女の言葉に頷きながら、考えていた。確かに僕たちは相手が知らない物を紹介するときに、間違って紹介することがある。ただ、彼女の言う『この世界』がこっちの世界なのか、あっちの世界なのか、理解するまで時間がかかった。考えて出た答えは、どちらの世界も同じ、ということだった。
「せっかくだから、いただきましょう」
 彼女がこちらに甘夏を放る。僕はそれを受け取って、そっと包丁を入れた。芳醇で鮮烈な香りが辺りに満ちる。人間くさいって言葉。僕は今までドブ臭いイメージを持っていたけれど、もしかしたらこんな感じに甘酸っぱいものなのかもしれない。
 人間くささ。甘夏の香り。二つの素敵な共通点を僕らはそっと口に運んだ。


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