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雨宮可縫花さん

雨宮可縫花(あまみやかぬか)です。エッセイ教室に通っています。向田邦子を読む日々です。

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酸っぱい甘夏

16/05/18 コンテスト(テーマ):第108回 時空モノガタリ文学賞 【 甘夏 】 コメント:0件 雨宮可縫花 閲覧数:803

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 濃厚な果物の香りに気がついて、文乃は足を止めた。
 安さが売りのスーパーには似つかわしくない、贈答用の立派なリンゴやぶどうが置かれていた。高級なものは香りから違うらしい。無性に果物が食べたくなった。
 伸ばした手を、文乃は慌てて引っ込めた。こんなに値段の高いものは絶対に駄目だ。
「リンゴが食べたい」
 夫である啓介の声を思い出し、文乃は果物売り場で一番安いリンゴを手に取った。さっきのよりは劣るけれど、それでも十分良い香りがする。
 しばらく考えたが、結局元の場所に戻した。文乃は果物を買わない。菓子類やジュース類も買わない。献立に必要な食材以外は一切購入しないと決めている。
 節約を始めたのは籍を入れる前だった。同棲を始めたとき、啓介からやりくりを任されたのだ。しっかり管理しなければと思った。給料を預けるということは、信頼しているということだ。文乃はそれに応えたかった。
 結婚してからは、さらに財布の紐をかたく締めた。家を購入し、住宅ローンという借金を一日でも早く返そうと努力した。
 啓介は果物が好きで、特にリンゴが好物だった。「食べたい」とよく言っていたが、文乃は頑なに買わなかった。
 仕方なく自分で買ったり、実家からもらったりしているようだった。
 買物を終えた文乃は自宅に戻り、いつものように家計簿をひらいた。先ほど購入したものを、項目ごとに書き込んでいく。じゃがいも一個、二十八円。にんじん一本、四十八円。初めは面倒だと思ったがすぐに慣れた。今月も予算内で収まりそうだ。安心しながら、文乃は電卓をたたいた。
 夜になって、文乃はどうやら風邪を引いたらしいことに気づいた。体がだるく、少し喉が痛い。微熱があるが、たいしたことはない。ニ、三日もすれば自然に治るだろう。啓介には、何度も病院へ行こうと言われたが、文乃は平気だからと意地を張った。
「なんで行きたくないんだ」
 診察代はいくら、薬代はこれくらいかな、と文乃は頭の中で電卓をたたいた。
「大げさだよ、病院なんて。これくらい全然平気」
 病院へ行ったら、今月分の予算をオーバーしてしまう。どうしてもしんどいようなら病院へ行くけれど、そうではない。
「私は客間に布団を敷いて寝るから。入って来ないでよね」
 啓介にうつすといけないと思い別々に休もうと提案したのだが、熱と体のだるさのせいか少し言い方がきつくなってしまった。
 啓介はあきらめたような表情で小さく息を吐き、文乃のいる部屋から出て行った。

 駅前にある小さな花屋で、文乃は働いている。
「知り合いから頂いたんだけれど、食べきれないから」
 常連客のひとりである三村さんが、甘夏を持ってきてくれた。袋の中には、大ぶりな実が八つほど入っている。
「ありがとうございます。いただきます」
 啓介と一緒に食べようと思った。けれど我慢できず、家に帰ると文乃は甘夏の厚い皮を剥いた。
 果肉を口に入れると、粒のひとつひとつがしっかりとしていた。みずみずしく爽やかだった。酸っぱさの中に、ほのかな甘みがある。
 久しぶりの甘夏だった。果物を食べること自体、そういえばとても久しぶりだった。
 三村さんは、毎日果物を食べると言っていた。それも数種類、なるべく季節のものを選ぶという。
「年金暮らしだから、贅沢はできないんだけどね」
 その言葉通り、買っていく仏花はいつも一番安い。スーパーも特売日にしか行かないらしいから、きちんと節約しているのだろう。
 けれど、同じやりくりでも文乃とは根本が違う。毎日季節の果物が並ぶ食卓。無駄遣いはしないが切り詰めるだけでもない。
 本当の豊かさは、幸せは、文乃があると思って見ていた方向には無かった。
 啓介とはうまくいっていない。いつからだろう。わからない。だけどもう駄目なのだ。自分の頑固な性格がいけなかったのかもしれない。果物を買わなかったことだけではない。いろんなことに、文乃は頑なだった。
 いつの間にか、涙が出ていた。それでも構わず、文乃は甘夏を食べた。洟が出て、嗚咽が続いた。
 プチプチとした粒の食感と酸っぱさが、いつまでも口の中に残っていた。


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