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クナリさん

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甘夏スライダー

16/04/29 コンテスト(テーマ):第108回 時空モノガタリ文学賞 【 甘夏 】 コメント:2件 クナリ 閲覧数:1116

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 俺に向かって放られた甘夏には、見たところ、スライダー回転がかかっている。
 これから、俺から見て右側に曲がって来るだろう。
 キャッチするためには、俺は右にダイブしなくてはならない。
 なぜ俺に向かって甘夏スライダーが投げられたのか、説明している暇はない。大事なのは、確実にこの甘夏をこの手で受け止めることだ。
 地面に落とすわけにはいかない。俺は婆さんから、
「お米の一粒一粒、百姓さんの丹精に感謝しながら食うんやで。落としたりしたらバチ当たるで」
と言い聞かせられて育った。米一粒でバチがあたるなら、甘夏一個落としたら、単純に質量差だけから推測しても命はない。
 いや。しかし。俺の胸に、疑問が湧いた。
 本当にあれはスライダー回転だろうか? 甘夏の皮には模様がないので、今いち回転が読み切れない。
 変化する方向を読み間違えたら、甘夏は無残にも道路のシミと化すだろう。
 そういえばスライダーには、縦のスライダーというのがある。
 縦スラはそれなりにメジャーではあるものの、実は特殊な変化球だ。縦に落ちる変化球と言えば、フォーク、スプリット、ナックル、パーム、チェンジアップなどがある。これらの共通点は、例えば回転を与えずに投げることで空気抵抗を極端に増やして失速させるなどする、つまり「失速させることで落ちる」変化球なのだ。
 ちなみにチェンジアップは、通常のストレートが二本指で投げだすのに対し、三本指で投げて球威を下げることで落とす。「水鉄砲は穴が小さい方がイキオイ良く飛ぶということだ、分かったかスカタン!」の逆も真なりというわけだ。「水鉄砲? 何の話ソレ?」という方はそっとしておいて下さいすみません。
 しかし、縦スラはそれらの球種とは一線を画す。自らの回転により、マグナス力による気圧差を生み出して急降下するからだ。
 そう、縦スラは、「落ちる」のではなく「自ら下に曲がる」唯一の変化球なのだ。
 本当に唯一なのかというと、落ちるカーブとかもあって微妙なのでちょっと強調しづらいが、まあいいじゃないですか。
 しかし、いよいよ迫り来る甘夏を見ていると、別の可能性が俺の中に芽生えた。
 あれはまさか……ストレートなんじゃないのか。
 体感でだが、どうもあの甘夏は時速150kmくらいは出ているように見える。スライダーは普通直球よりも15〜20kmくらい球速が落ちるから、あれがスライダーなら投げた奴は165km以上の直球が投げられるということになる。
 ……甘夏で。
 そんなことがありうるのか?
 余談だが、元ヤクルトの伊藤智仁のスライダーは90度曲がったらしい。「真横に行ったらキャッチャーに届かんじゃねえか」と思うだろうが、これを言ったのはかの古田敦也元捕手である。
 ここで、「だったら本当かも!」となるか、「そりゃ宣伝文句とか、あるいは単に興奮とか感動とかでちょっと盛ったんだろ。真に受ける方が不誠実だと思うぞ」となるかで、あなたの常識度が分かる。
 無論、前者が常識人である。
 などと言っている間に、もう甘夏はすぐそこまで迫っていた。
 くそ、こうなったら真正面で受ける。いくらなんでも、甘夏で165km投げられる奴なんているわけが――……
 その時、俺の脳裏に一つの言葉が雷鳴のごとく閃いた。
(……高速スライダー!)
 明確な規定があるわけではないが、いわゆる高速スライダーは直球と10km程度の球速差しかない。中には、5kmくらいしか変わらない投手もいるとかいないとか。
 ということは、奴が甘夏で直球155km出せるのなら、この球がスライダーである可能性はある。
 かなり難しいのは確かだが、165kmよりはありそうだ。ねえよって言うな。
 一か八か。俺は、右に飛んだ。
 これがバッティングなら、初動としては遅過ぎる。
 しかし幸いなことに俺はバットではない。
 もっと言えばバッターでもない。
 んなこと言ったらキャッチャーでもないが。
 結果。
 甘夏は、俺の右手にかろうじて収まった。
 掌中でギュルギュルと回転を続ける甘夏を、何とか静止させる。
 そのままひと思いに皮をむいて中のひと房をほおばると、初夏を代表する清々しい香りが俺を包んだ。
 やはり、甘夏は投げるものではなく、食べるものだ。あまつさえスライダー回転で投げるなど、言語道断である。
 俺は、奴をギラリと睨みつけた。
 そして、戦慄した。
 奴は既に振りかぶり、ノーワインドアップで二投目のモーションに入っていた。
 そしてその手には――
「デコポンだと!?」
 恐らく投じられるのは、その凹凸を活かして不規則に変化する、天然の魔球ナックル。
 いいだろう。何回でも受け止めてやるさ。
 そして、美味しく頂いてやる。

 第一次産業に関わる、全ての方への尊敬と感謝を込めて。
 


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このストーリーに関するコメント

16/06/09 光石七

客観的に見ればほんの1、2秒の出来事だと思うのですが、キャッチするまでの間にここまで思考するとは……(笑)
奴って誰? まさかの次? そして主人公の見事な(笑)決意。
ええ、食べ物を粗末にしてはいけませんね。
楽しませていただきました^^

16/06/11 クナリ

光石七さん>
そう、食べ物はとても尊いもので、「投げる」「潰す」といった使い道があるのはわかるのですが、最後は美味しく食べたいものなのです。
ボール……じゃない、甘夏が手に届くまでにどんだけ考えるんだ、という突っ込みをしていただきたいと思っていたので嬉しいです!
ありがとうございます!

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