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宮下 倖さん

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黒猫の一存

16/04/25 コンテスト(テーマ):第106回 時空モノガタリ文学賞 【 ねこ 】 コメント:0件 宮下 倖 閲覧数:842

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 夜空を切り取ったような艶やかな毛並みの黒猫が我が家に迷い込んできたのは、急逝した夫の四十九日の朝だった。 

 お経をあげてもらうだけの簡素な法要の準備だったけれど、それなりに早朝から忙しい。あれこれと家の中を片づけていたとき、茶の間の座布団の上に黒い塊を見つけた。一度行き過ぎた廊下を二、三歩戻り首を伸ばすと、塊は「にゃあ」と鳴く。「猫?」と呟き、私は箒を持ったままぽかんと口を開けた。
 掃除のため窓やサッシを開け放していたので、どこかから入ったらしい。堂々としたもので、近寄っても座布団の上から逃げようとはしなかった。私の顔を見上げ、待ち兼ねていたようにまた「にゃあ」と鳴く。仔猫ではない。しかしさほど大きくもない。長いしっぽがしなやかに揺れた。

「こんな日にとんだお客さまねえ。……もしかしてあの人からのお迎え?」

 おどけて、けれど半分本音も織りまぜてそう訊くと、黒猫は目を細めて鼻を鳴らした。ふんっという意外にしっかりした鼻息に、小さなため息を返した私は猫の傍にしゃがみ込んだ。

「猫は大好きだから嬉しいけど、今日はとても忙しくてあなたの相手をしてあげる余裕はないの」

 白髪の目立つ髪を耳にかけながらそう言うと、夫がお気に入りだった座布団を我が物顔で占領していた猫は、気にするなとでもいうように「にゃあ」と甘い声をあげた。主を失って久しい座布団に柔らかな重みが加わるさまを見ていると、ふいに夫の顔が浮かんだ。



 夫は、昔から「さあ決まりだ」と大した相談もくれずに済ませてしまう人だった。家族旅行の行先や電化製品の買い替え、果ては仕事の早期退職を決めたときも、縁もゆかりもなかったこの地に家を買ったときも「もう決めた」と通してきた。
 私の意向を求めてきたのは、もしかするとプロポーズのときくらいだったかもしれない。私を自宅まで送り届けてくれた車の中で、「結婚してもらえないだろうか」と身を乗り出した必死な表情は今も忘れられない。
 夫の唐突な「決まりだ」は、その都度私と娘たちの目を丸くさせたけれど、思えばそうそう困った「決まりだ」はなかったような気がする。それは結果的にということにはなるけれど、家族旅行はどこもすべて楽しかったし、人々の温かさが満ちるこの土地はとても住みやすい。早期退職のおかげで、私は急に逝ってしまった夫と、その日々を悔やまないほどには長く暮らせた。

 夫の一存は今思えばどこか心地よかったし、「お父さんったらまた……」と苦笑しながら顔を見合せることで、娘たちの難しい年頃も乗り切ってこれたように感じる。
 緩やかな川面を何枚もの写真が流れていくように、想い出が私の心の中を過ぎていく。手を伸ばせば届きそうな、でももうそれは過去だとわかっている甘苦しい感覚。懐かしくて涙ぐみそうになる感傷を遮ったのは「にゃあ」という猫の一声だった。私を現実に引き戻した猫は、青みがかったぴかぴかの瞳でじっとこちらを見上げている。

「本当に今日は忙しいの。ほかのお相手を探してくれる?」

 けれど猫は動かない。長いしっぽだけがぱたぱたと座布団を叩いている。私は箒を脇に置き、猫の前に正座した。

「私もうおばあちゃんですからね、激しい遊びはしませんよ?」 「にゃあ」
「食事なんて、ごはんに鰹節だけかもしれないですよ?」    「にゃあ」
「間違えて箒で掃き出しちゃうかも。掃除機で吸っちゃうかも」 「にゃあ」
「毎日しつこく話しかけて、うるさくするかもしれませんよ?」 「にゃあ」

 黒猫はいちいち律儀に返事をよこした。しっぽの動きが嬉しそうに弾んだものになる。

「それでもいいなら、ここにいる? 私と暮らす?」

 座布団に寝そべって頭だけ上げていた猫は、すっと身を起こし前足を揃えて座り、正座をする私と向き合って「にゃあ」とひときわ高い声で鳴いた。その声が、夫が楽しげに宣言する「決まりだ」に重なる。彼を亡くしてから初めて自然と微笑むことができた。黒猫の喉元を指先でくすぐると、その温もりにほっと肩の力が抜ける。

 私は夫の口調を真似して「決まりだ」と呟いた。

 


 
―― 了 ――


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