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吉岡 幸一さん

性別 男性
将来の夢
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この柔らかい時間の内側で

16/04/20 コンテスト(テーマ):第106回 時空モノガタリ文学賞 【 ねこ 】 コメント:0件 吉岡 幸一 閲覧数:698

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 滑り台の下で雨宿りをしながら虎猫が欠伸をしている。薄曇りの空からは細い糸のような雨が降ってくる。もれた太陽の光を受けて雨粒が七色にきらめいている。もうじき雨は止むだろう。誰もいない公園は時の流れを忘れさせる。
 痩せ細った虎猫は雨の先にあるパン屋を見つめている。公園を出て、道を渡ればそこに赤い庇の小さなパン屋がある。
 おなか空いたな、とつぶやく声は雨の底に染み込んでいく。
 午前七時を過ぎたころパン屋のシャッターが開く。ちょうど雨も止み、虎猫を招くように日差しがパン屋の窓ガラスを照らす。光を反射した窓の向こうにはエプロン姿の店員が柔らかそうなパンを並べている。虎猫は立ち上がると、足重くぼたぼたと歩いていく。その姿は老いた老兵のよう。
 ドアの前でひと鳴きすると、エプロン姿の店員が出てきて千切ったメロンパンの欠片を虎猫の前に置く。「ありがとう」と、虎猫は言うが店員には「にゃあ」としか聞こえない。
「飼ってあげたいけど、あなたはどうかしら。ひとりが好きなの。私はね…」
 スカートをまるめてしゃがみ込んだ店員は、虎猫の頭を撫でかけた手をすぐに引っ込めて唇をきつく噛む。
「ごめんね。またパンをあげるからね」
 店員は立ち上がると、少しばかり名残惜しそうにドアのなかへ戻っていく。
 飼い猫になるなんてごめんだ、と虎猫は思いながらも、この店員なら頭を撫でられてもいいと思う。
 通勤途中のOLや通学途中の学生がぽつぽつと店に入っていく。入口近くでパンを食べる虎猫を横目で見ていくが、誰ひとり猫に話しかけてこない。痩せて毛並みの荒れた野良猫など興味がないといった風だ。これが可愛い子猫なら、誰もが立ち止まりパンを千切ってくれたり頭を撫でてくれたりしただろうか。
 愛されないことをむしろ誇らしいと虎猫は思う。食べ物のために媚びるつもりはない。可愛らしさよりも逞しさこそが必要だ。虎猫は人が側を通っても平然と食べ続ける。
「ずいぶん痩せてるな、おい」
 声に振り向いてみれば太った白猫が右前足を舐めながら目を細めている。毛並みはつやつやとしていて、首には鈴をつけている。
「野良猫はみじめだな。餌を恵んでもらうなんて俺には真似ができねえな」
 虎猫は道端にはえている草でも見るように白猫に目をやる。風の音を聞き流すように白猫の言葉を聞き流す。
「おい、なにか言い返してみろよ。キャットフードってのを食ったことがあるか。どうだ食わせてやろうか」
 虎猫は空を見上げため息をつくと、白猫のことなど見向きもせず公園へと戻っていく。白猫は聞き取れない声でなにかしゃべったが、虎猫の背中を見送ると勢いよく川向こうの住宅街に向かって走っていく。
 数本の樹木に囲まれた公園は小さい。遊具も滑り台しかなく、砂場もブランコもない。子供たちが遊びに来ることも少なく、公園に来るものといえば、タクシーの運転手が公衆トイレに立ち寄るくらいだ。
 腹を膨らませた虎猫は木陰で眠る。雨が嘘のように晴れ上がった空は影の色を濃くしている。春の風は心地よく夢へと誘う。
 虎猫はパン屋の店員に抱かれている。甘い八重桜の香りが胸元からしている。やさしく虎猫の背中をなでる店員の手は柔らかい。虎猫が鳴くと、店員は「どうしたの」と言いながら顔を近づけてくる。
 心地よい夢から目覚めた後は、朽ちかけたベンチに登ってパン屋を眺める。窓ガラスの奥には店員が忙しげに働いている姿が覗ける。店の奥からパンを出して並べたり、レジで客と話しながらパンを袋につめたりしている。起きている時間のほとんどはパン屋の店員を眺めて過ごしている。
 夕方になり客足も途絶え店が閉まる頃になると虎猫はふたたび店の前に立って鳴く。すると店員はすぐにドアを開けて売れ残ったパンを虎猫の前に置く。
「猫ちゃん、ねえ、私と一緒に暮らさない。今日でこの店を辞めるの。明日、田舎に帰るから一緒にお出でよ。田舎なら猫ちゃんとだって暮らせるし」
 エプロンを外した店員は服が汚れるのもかまわず虎猫を抱きかかえる。硬直したように手足を動かせないでいる虎猫は絞るように一声鳴いてあまく服を噛む。
 朱色の雲の下を鳥の群れが飛んでいく。ふいに店員の肩がふるえ涙がながれ落ちていく。虎猫の額に落ちた涙を吸い取るように唇をよせると店員は歩きだす。
 虎猫はパンのようにふっくらとした胸のなかで、朱色に染まる滑り台が見えなくなるまでずっと見つめている。


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