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高橋螢参郎さん

何でもいいから金と機会おくれ

性別 女性
将来の夢 二次元に入って箱崎星梨花ちゃんと結婚します
座右の銘 黙り虫、壁を破る

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白蟻の恋

16/03/14 コンテスト(テーマ):第103回 時空モノガタリ文学賞 【 同棲 】 コメント:0件 高橋螢参郎 閲覧数:676

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「……た、ただいま」
 家に戻った小男は、誰にも聞き取れないほどの声でそう言った。
 おかえり、の返事はない。いや、あっては困る。
 老朽化した一戸建ての一階と二階の間にぽっかりと開いた空洞が、この小男のねぐらだった。外壁の綻びから、生来手先の器用だったのを活かして簡単な部屋を勝手に拵えてしまったのだ。
「ただいま」
 小男の帰宅からやや遅れて、若い女の声が階下より聞こえてきた。亡き父母よりこの家を引き継いだ家主である、まち子の声だった。もちろん、天井裏に寄宿している者がいる事など知る由もない。
「……おかえり」
 直接聞かせる事は叶わなかったが、たったこれだけのやり取りでも小男の心は暖かくなるのだった。

 日銭を右から左へと受け流す有様ではあったが、住む場所くらいはなんとかならぬ事もなかった。それでも小男はこんな生活をかれこれ五年は続けていたのだ。
 小男は天袋の隙間より、夫の帰りを待ち続けるまち子の姿をこっそりと眺めるのが好きだった。ただ何をするでもなく居間で寛いでいる様子を、飽きもせず何時間でも見続ける事ができた。
 ここまでするのだから、当然小男はまち子に懸想していた。だが決して出歯亀目的ではなく、ただ一度でいいから、好いた者とひとつ屋根の下に暮らしてみたいという願望だけが彼にはあった。
 小男には家族というものがなかった。物心付く前に施設へと預けられ、欠食児童たちの中で揉まれるばかりだった。加えて生来気が弱く風采もあがらないとなれば、直に言い寄る事など考えも及ばなかった。
「ただいま」
 待ち焦がれていた夫の声にまち子が足早に出て行ったのを見届けると、小男は戸をそっと閉じた。不毛なのは本人が一番よく知っていたものの、かつてまち子の結婚を機に出て行こうとした時も結局踏ん切りがつかなかった。
 だがしばらく暮らしてみると不思議な事に、夫に対してさえも情がわいてきたのだ。
 天井裏から見下ろす景色はまるで精巧にできた箱庭のように、小男の心を打った。些細なやり取りから他愛のない言い争いに至るまで、若い二人の日常は万華鏡のようにきらきらと輝いて見えた。
 ここで起こるひとつひとつの出来事に対し共に一喜一憂しているだけで、小男は充分満ち足りていた。

 ほどなくして、まち子と夫の間に小さな女の子が生まれた。
 小男も初孫でも産まれたような心持ちで、相変わらず家族の日々を密かに見守っていた。
 とある昼下がり、まち子が動き回るようになった女の子からふと目を離した瞬間があった。台所では薬缶に火をかけている最中だった。
 はらはらとしながらも流石に出て行くわけにもいかず、小男もただ成り行きに任せる事しかできなかった。
 そのうちに女の子は、台所に掴まり立ちしようとし始めた。
「危ない!」
 小男はなりふり構わず、天袋から転がり落ちる勢いで飛び出して女の子に後ろから覆い被さった。煮立った熱湯が彼の背中に容赦なく注がれたが、小男は歯を食い縛り一言も発さなかった。
「誰なの!?」
 しかし小男の努力も虚しく、物音と女の子の泣き声で遂にその姿をまち子の前へと晒す事となってしまった。

 まち子はひとまず我が子を寝かしつけると、火傷ですっかり水膨れになった小男の背中に軟膏を塗ってやった。
 一方で小男は道で干上がった蚯蚓のような惨めさをひしひしと感じていた。これまでの行いを思えばあまりに寛大な措置であったが、今の小男には幸せを噛み締める余裕すらなかった。
「いつからあんなところに……」
「……申し訳ありません」
 それ以上返す言葉はなかった。あれほど気にかけていたというのに、いざ直接口を利くとなるとここまで何も言えなくなってしまうのか。
 傷口に沁みる優しさに絆されぬ様に、小男は心中で自身の事を散々に罵った。
 おれは家に巣食う白蟻と同じだ。よそ様に間借りするだけで、本当は何ひとつ手に入れていなかったのだ。おれがこの人たちの事をどう思おうが、そんなものは全てまやかしに過ぎなかったのだと。
「……すぐに出て行けとは言いません。形はどうであれ、あなたはうちの子の命の恩人です。行くあてがないのであれば、しばらくは……」
「奥さん」
 小男は自分から、差し伸べられた手を払いのけた。
「……虫のいい事を言うようですが、私の事はどうか忘れてください。ただ今日の出来事を、ちょっとでも幸運だったと思ってくださるだけで充分なんです。私がここにいたから、この子が無事に済んだ。少しでも意味があったのだと、それだけ、どうかそう思う事だけ、何卒お許しください」
 まち子がこれに頷いたのをしかと見届けると、小男は立ち上がった。
「では、お達者で」
「あっ……」
 そう言って手当も満足に終わらぬうちに、小男はまち子の家を後にした。それきり彼の姿を見た者はいなかったという。


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