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橘 聰さん

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アルスアマトリア 外典 虚無の章

16/01/14 コンテスト(テーマ):第九十九回 時空モノガタリ文学賞 【 失恋 】 コメント:2件 橘 聰 閲覧数:739

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 私はある本を探している。しかし、インターネット、その他もろもろの手段を使っても、未だ手掛かりすらつかめていない。ならばそんな本はそもそも存在しないのではないかと思うかもしれない。しかし確かにその本は存在している。私は若い頃に一度その本に出会ったことがある。

 あれは晴れた夏の日、恋人に振られてしまった翌日のことだ。そのとき私は前日の別れ話を思い返しながらやり場のない思いを抱えていた。別れ話を切り出すとき、あの人は色々と理由を挙げていたが、こちらだって不満が無かったわけではない。それでもその不満を補って余りあるくらいお互い幸せだったと思っていた。しかしそれは結局私の独りよがりだった。振られた痛みはもちろんあったが、それと同じくらい、自分の想いが無価値だと否定された虚しさ、寂しさにとらわれていた。
 そんなわけでひどく心は疲れていたのだが、体は正直に空腹を訴えていた。流石に料理をする気力は無かったので、近所の定食屋に出かけて昼食を済ませた。そして帰宅しようと、太陽に焼かれながらフラフラと陽炎にゆらめく灰色の街を歩いていると、ふと古本屋の看板が目に留まった。特に本が欲しかったわけではないが、太陽の熱から逃げるような気持ちでその古本屋に入った。
 古本屋の中はエアコンこそ入っていなかったもののひんやりしていて、古書のにおいとしか言いようのない独特のにおいに満たされていた。狭い通路に入り棚の本を眺めていると一冊の本が目に留まった。タイトルは『アルスアマトリア』。大昔に書かれた恋愛指南書だ。失恋中の我が身を思い、皮肉に感じながらも手に取った。四六判のハードカバーで、厚さからして分量は200ページ前後といったところだろうか。表紙をみてみると、タイトルの下に小さく『外典』と書かれていることに気が付いた。つまり、この本は“正典”に収められるはずだったが、何らかの理由で収められなかった文章を集めたものということだ。ありがたい恋愛指南の残りかすを拝読してやろうじゃないかという攻撃的な気持ちから『外典』の目次を開いた。『外典』は「焦熱の章」「虚無の章」「業火の章」「友の章」という4つの章で構成されていて、序論やあとがきは無かった。私は自分の気持ちに丁度ぴったりな「虚無の章」を開いて流し読みをしていたが、ある文章に差し掛かったところで私は息を呑んだ。そして、決して長くはないその文章を繰り返し読んだ。その文章は今でも鮮明に思い出せる。

「失恋とは愛しい人との関係が破たんすることではありません。
そうした時にその人への愛情を無価値であったと決めつけ、新しい恋に向かう情熱を失ってしまうこと、すなわち恋する心そのものを失ってしまうことを言うのです。
あせらずにもう一度じっくりと自分の気持ちと思い出を整理し、幸福とは何かを考え直してみなさい。
自分の時間は有限で、出会える人間は無限ではない。
自分の気持ちを整理し、前向きに他者の魅力を探して歩み寄る時、たとえ手痛い別れに傷ついていても、必ずや新しい恋への光明が見えるでしょう」

 私は何か救われたような気がした。恋人に否定されたから、恋人が同じ気持ちを抱いてくれなかったから、自分の想いは、そして幸福は無価値だったと思いこんでいた。しかしそうではないのだ。たとえ相手が同じ気持ちを返してくれなくても、恋をすることで感じた幸福はすべて本物だった。そして、その幸福を求める心はまだ失っていない。ならば何をする?有限な時間、有限な出会いの機会を悲嘆にくれて失っていくのか?そうじゃないだろう。気づいていないだけで、素敵な人は身近にいるかもしれない。自分の身の回りをしっかり見て、素敵なものを、素敵な人を見つけるんだ。そうして見つけた人ともう一度、恋の幸福を感じられたら、それはきっと素敵なことだろう。たとえ結果が伴わなくても、そうやって燃やした心は私を幸せにしてくれる。結果が伴えばもっと幸せになれる。
 私は『アルスアマトリア 外典』を棚に戻して店を出た。昼下がりの太陽と抜けるように青い空、そして高く伸びる金色のヒマワリが眩しかった。
 その後、帰り道で偶然友人と出会い、そのまま失恋残念パーティと称した宅飲みに連行された。その友人が後の私の伴侶になることはまた別の話だ。

 後日、立ち直るきっかけを与えてくれた『アルスアマトリア 外典』をしっかり読んでみようと思い、件の古本屋に行ったが、どの棚を探しても見つからなかった。店主に聞いても、そんな本があったかどうかもわからないとのことだった(古物を取り扱っているのにそれで良いのかとも思うが)。
 それ以来私はその“恩人”との再会を望み探し続けている。それは叶わぬ恋のようなものかもしれないが、それは確かに私の人生の一部であり、私の心に情熱をもたらしてくれている。


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このストーリーに関するコメント

16/01/16 クナリ

いいお話だったのですが、主人公の意識が変わってからのストーリーの展開自体があっさりとしているのが、もったいなく感じました。

16/01/17 橘 聰

クナリさん

コメントありがとうございます。自分を変えてくれた言葉――内容自体は陳腐なものでも――との出会いにウェイトを置いて書いたのですが、見直すと確かに他の部分が寂しかったかもしれません。精進します。

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