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ちほさん

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性別 女性
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漱石の『それから』にこじつけ自分の不倫を正当化する男のこと

16/01/04 コンテスト(テーマ):第100回 時空モノガタリ文学賞 【 純文学 】 コメント:0件 ちほ 閲覧数:1020

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陽が落ちる直前の燃えるような朱色が、小さな窓の片側からさっと入り込んで、ただでさえ疲れているというのに私の心を苛立たせる。いっそのこと今夜は、この狭い第二書庫で寝てしまおうか。古い机に山積みにされた純文学の本を、一冊一冊丁寧に本棚に収めていく。脚立の上り下りを延々と繰り返す作業は、単純で退屈なものだ。高校三年生の私は、大学受験の緊張から解放されると、ありがちな『学生生活の残された無目的の日々の退屈』から気を紛らわせるため、あまり交流のなかった人間とも会話することで残りの学生生活を意味づけようとしてきた。あと一か月もすれば卒業。学校の図書館司書の手伝いとして、今、共に働いているクラスメートのSともサヨナラだ。Sの性質は、障害に出会っても、さり気なく避けて通る水のよう。何事もまともにぶつかる私とは大いに違う。いつも自分の世界に入り込んで視線を彷徨わせるSに話しかける機会はなかなかなく、ようやく去年の秋に声をかけることができた。それ以来ことあるごとにSを誘い、Sも嫌がらず、私は親しい友ができたと喜んでいた。
Sの右手が、机の上の夏目漱石『それから』の淡い緑色の表紙の上をスーッと滑るように撫でた。そして、そっと本を裏返す。彼はそこで手を止めて、脚立の一番上にいる私に視線を向けた。その視線の優しさに私は嬉しくなり、Sの友人であることを誇らしく思った。Sは、静かに訊ねてきた。
「どうしたの」
「疲れた。おまえ、何をしている」
「この本の内容を、この手で触れるだけで感じてみたい、と思ってね」
「手のひらを表紙に置いてみるだけで本が読めるのか」
「読めないよ。僕は、魔法使いではないからね。心の底までも感じたいだけ」
Sは、小さく笑う。彼は、もう一度『それから』を表に返した。その古びた淡い緑色の表紙を、何を思ってか見つめ続けてから、何か思い出したようで、そっと視線をそらす。
「どうした」
「『それから』については、純文学だからといって不倫を高二で学ばせるな、という人もいるよ」
「確かに」
「でも、本物の愛だと思う。この作品を知った時、あまりにも似ていると思ってね」
「似ている? 何が?」
 Sは、また小さく笑う。今度の笑みは、どこか陶酔気味に。彼は言う。
「悪い本では決してなく、名作だ。君は、それを認めてくれなければいけない。僕という人間を本当の意味で知りたいのなら、認めてくれなくては!」
「でも、作品として不倫にする必要はあったのかな」
「うん、ある。不倫だから真実の愛を表現することが可能になる。夫婦愛を描くより偽りがない。隠している想いまでもが、愛になる」
 Sはいつになく饒舌になり、いつも考えていたことだったのか迷いがなかった。あまりにはっきりしたもの言いだったから、私は……潔癖な私は逃げ出したくなった。Sの心の世界が、なにかしら不吉に感じる。Sの薄い唇が、夕焼けが去った薄暗闇の中で、にぃと笑いの形をとった。彼は、私の顔を覗き込むようにして、そっと話した。羽根のように軽い調子で。
「彼女は、僕のものだよ。彼女は、夫より僕を愛している」
「……不倫?」
「悪いかい? 『それから』と同じじゃないか。僕は彼女と共にありたいんだ」
「彼女の夫は?」
 Sの眼差しが嫌悪感を滲ませる。その薄い唇が吐き捨てるように言葉を発する。
「邪魔だ。彼女を好きにできるのは、僕だけだ」
「彼女って、誰?」
「美術のN先生。彼女は僕の裸身を描いた後、いつも僕を楽しませてくれる。──ねぇ、潔癖な君。そんなんじゃあ彼女は君など愛さないよ」
 私は、脚立から飛び降り書庫から飛び出した。
Sという人物は、清らかな魂を持つ優しい人間なんだと思っていた。だから、この私も憧れていたのだが……。
『だって、仕方ないじゃないか。この愛を貫くなら、不倫しかないよ』
Sのそんな声が追いかけてくるような気がする。廊下を駆けるのを止めたら、影絵のような二人の姿が宙にふわりと現れて、そしてだんだんに近づき、それらは重なった。私の心がどす黒い霧に纏わりつかれ、暗い地の底へと沈んでいく。私は何処へ走れば、失ったものを取り戻せるのか。どんな方法でも取り戻すことなど不可能だと分かっていながらも、私は混迷の闇に彷徨い続ける。こんな私を(若さ故に)と他人は冷笑するだろうか。


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