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6丁目の女さん

6丁目の女と申します。 テーマというお題に対し、どのようなモノガタリが生まれるのか、読むのも書くのも楽しみながら、2000字小説というジャンルに挑戦してみたいと思います。 みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

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サヨナラ、あなた。

15/12/26 コンテスト(テーマ):第九十九回 時空モノガタリ文学賞 【 失恋 】 コメント:4件 6丁目の女 閲覧数:894

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 目覚めるとすぐに、夫が私をそっと抱きしめてくれる。
「よく眠れたかい?怖い夢は見なかった?」
 夫の温もりを感じながら、幼い子どもに戻ったような感覚に浸る至福の時間。 
 私たち夫婦には子どもがいないから、私たちは変わりばんこに子どもに戻る。

「今夜はお食事つくれなくてごめんなさいね」
「そんなこと気にしないで。久しぶりなんだろ?その昔の上司って、男の人?」
「ううん、女の人」
 夫はいつも優しくて寛大だ。私が男の人と食事をすることがあっても、それを咎めたりはしない。それなのに今朝は、夫に嘘をついてしまった。
 
 失恋の記念にピアスを開けたのは、20歳の時だった。腰まであった髪を耳の下あたりで切りそろえ、切れるだけ腕を切った。あの人が好きだと言ってくれた長い髪、何度も口づけしてくれた耳たぶ、何度も絡めあい抱きしめあった両腕。失恋は若かった私の心も肉体も容赦なく傷つけた。「会えなくなるね、淋しいね」とあの人は言った。子どもを産んだ妻が帰ってくるから、もう私とは会えなくなるのだと、あの人は告げた。あの人が私に教えた深紅のワインを口にしながら、カミソリの刃を腕にあてた。白い肌に赤い血が滲むと、生きているんだと実感できた。温かい血が流れ、温度を失うとそれは錆びた鉄の匂いがした。その血を大量のティッシュでぬぐい、堆く積み上げ、真空パックにしてお守りにした。たとえ恋を失っても、あの人をずっと感じていたかった。恋が終わっても、会社へ行けばあの人に会えた。お守りを握りしめながら私は上司の指示に従い続けた。
「あれ、髪切った?」上司が気づいてくれたのは、それだけだった。その年、真夏なのに長袖を着続けた。

 両腕に5mmごとに刻んだ傷のほとんどが消えたけれど、20年経っても消えない傷跡が数本、白いミミズのように私の両腕を這い続けている。
「お久しぶりです。元気にしてますか?」
 昔の上司から連絡が届いた。もう何の感情もない。もう大丈夫だ。嫌な予感を感じるよりも先に、懐かしさが胸を満たした。あれほどの痛みでさえも今は、全身全霊で生きていた証だったと思える、密かな勲章だ。
 それに私には今、あの人に縋りたい理由がある。40歳にして私はまたも恋を失おうとしている。40歳で失う恋は、20歳で失う恋に比して、あまりに滑稽だ。腕を切る気力もない。昔の上司に慰めを求めるつもりはない。何も求めない。ただ私の精神が崩壊するのをとどめるため、年甲斐もなく涙腺が決壊するのをとどめるため、気を紛らわせる必要があった。危うい均衡を守るために、幻想でもいいから誰かに想いを馳せていたかった。四十路の人妻が、若い男に恋をして、捨てられる。20歳の娘に恋人を奪われたとして、泣き叫ぶ権利もない。

「きみの上司だった女性、元気にしてた?」
 夫はいつも私を優しく包んでくれる。出会ってからまだ一度も私たち夫婦の間に諍いはない。朝、目覚めたときから、夜、眠るまで、夫のおかげで私はこの上ない幸福を実感することができる。
 夫に恋をしているわけではない。だから、夫に対して失恋することはない。眩暈がするほどに甘い生活、何の不自由もない、私たちの夫婦生活は完璧だった。

「上司だった女性、とても幸せそうだったわ」
「それはよかったね。その人がずっと幸せであるように、僕も祈りたい気分だな」

 夫は優しい。誰に対しても。完璧な人間であるはずなのに、不完全な人間を妻にしたことだけが、彼が犯した誤りだった。彼の唯一の汚点が、この私だ。
 
 失恋は、怖くない。恋を失う痛みには慣れている。その痛みは麻薬のように私を掻き立て翻弄しながら、生きている実感を与えてくれる。いわば私自身、それがないと私ではなくなってしまう。

「来年は僕たちが結婚して10年の記念だから、どこか長い旅にでようか?」
 夫は優しい。記念日を忘れたこともない。振り返ってみれば、毎日が特別な記念日だった。かけがえのない幸福な日々だった。だけど、サヨナラあなた。私は身篭ってしまいました。私を捨てて若い娘の虜になった、あの若い男の子どもを。新しい生命を授かってしまったのです。あなたはきっと、すべてを知っても、すべてを受け容れてくれるのでしょう?優しいあなた。その優しさに甘えてしまいたくなるけれど、そこまであなたを裏切ることは私にはできません。だって、あなたを愛していたから。あなただけを愛していたから。恋を失うことは怖くないけれど、愛を失ってしまったら、いったいどれほどの喪失が私を襲うのでしょう?サヨナラ、あなた。愛したのは唯ひとり、優しいあなただけ。


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このストーリーに関するコメント

16/01/06 泡沫恋歌

6丁目の女 様、拝読しました。

たしかに愛と恋は違いますよね。
恋は追い求めるもの、愛は包み込まれるもの。
彼女がこの優しい夫のどこが不満で、若い男に走ったのかは分からないけれど・・・
大きな過ちであり、後々まで後悔すると思いますね。
すべてを告白して、この旦那さんとやっていく方がお腹の子にも彼女にも良いと思うのですが・・・
それはちょっとムシが好過ぎるかも?

女性として、いろいろ考えさせられるモノガタリでした。

16/01/07 6丁目の女

泡沫恋歌 様、コメントありがとうございます。

たぶん夫に不満はまったくないのだと思いますが、いわゆる恋愛体質?の女性なのではないかとイメージします。魔性の女とか?ドMの女とか?
もしもこんな状況に私がなったなら…それはちょっと想像もできません。

この先、彼女がどんな道を選ぶのか…それはわかりませんが、作者である私個人の願望としては、子どもを連れてどこか遠い場所、異国、最果ての地、地球の裏側…秘境辺境でひっそりと子どもを育てながら、また何やらやらかして欲しい気がします。小説のような恋愛を繰り返しながら、老婆になったとき、最後は若い男に愛されながら人生を全うする…それはあまりにもムシが好過ぎますね(苦笑)そんな老婆の恋愛遍歴を回顧する小説が書きたくなりました。その娘の物語も…いつもいろいろとイメージを拡げてくださり、ありがとうございます!

16/01/24 光石七

拝読しました。
主人公は恋愛中毒(失恋中毒?)なのでしょうか。恋が自分のアイデンティティの一部なんですね。
夫に恋してはいないけれど、愛していた。失恋より“失愛”が辛いとわかっているなら愛のほうを大事にすればいいと思うのですが、人の心はそう簡単ではないですね。
身勝手と思いつつも主人公に同情や共感を覚える部分もあり、いろいろ考えさせられました。

16/01/24 6丁目の女

光石七 様、コメントありがとうございます!

「失恋中毒」って、いいですね!
痛み=快感、なんでしょうか?? 主人公自身にも自覚はないのでしょうが、そんなふうに想像します。

私にとって人間の愛すべき魅力は不完全なところです。ダメダメで、矛盾してて、危うくて脆くて、悲劇的だったり…そういう人間の特性を小説にできたら、と憧れます。正しい人にはあまり魅力を感じない。(小説の世界では)

あまり好感を持たれないであろう主人公に対し、同情や共感を抱いてくれるなんて、作者としては嬉しいです!主人公に代わって御礼申しあげます。ありがとうございます!

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