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四島トイさん

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泥棒猫と早朝のキッチン

12/08/15 コンテスト(テーマ):【 猫 】 コメント:1件 四島トイ 閲覧数:1548

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 早朝の厨房の片隅で若者が息を凝らしている。
 彼はパン焼き職人だ。腕は悪くないものの極めて秀でた何かがあるわけでもない。ごく平凡な、小麦畑に囲まれた小さな町の小さなパン屋の店主だ。
 そんな彼の前で奇妙なことが起こるようになったのは数日前からのこと。
 毎朝、用意したパン生地がいくつか消えている。クロワッサンにフィセル、バタールやちょっとした調理パンも無くなっていた。
 店は小さいながらも常連客もいる。皆、朝一番で買いに来る不機嫌な労働者ばかりだが客は客。もう少し嬉しそうにしてほしいなど言える義理もない。
「今日はまだあるな……」
 時刻は朝の四時。いつもより早目の厨房。裏庭に面した小さな窓から、細く切れるような月の光を呼び込んで静かな明るさがある。夜明け間近の月はいつも以上に白い。昨晩、片付けた調理器具の数々は整然と並び、用意した生地もまた静かに息を潜めていた。
 一体誰が、パンの生地など持っていくのか。彼は何度目ともわからない問いを呟いた。
 焼き上がったパンではなく生地を持っていくなど物好きにもほどがある。その上、生地は盗られるようになってからは、見たこともない焦げ茶色の袋に一キログラムほどの麦粉が詰められて残されていた。袋の底には農場の印字があったが、塗り潰されていた。泥棒にしては随分と奇妙である。
 店主の想像はそれ以上働きようもなかった。だからこそ自分で見て確かめるしかない。そう決意して、彼は厨房でその奇妙な人物を待ち構えるこそにしたのだ。
 損得の話だけではない。平凡たる彼はこの奇妙さに惹かれてもいた。
「そんなとこで待ってたって誰も来ないよ」
 声は突然だった。不意のことに彼は驚いて足をテーブルにぶつけた。
「おはよう。コックさん。今日は早起きだね」
 声の先。見上げた棚の上には一匹の大きな猫がいた。白地にコーヒー色の縞の入った本当に大きな猫だ。爛々と輝くこれまた大きな目を意地悪そうにきうっと細めると空気の漏れるような音を立てて笑った。
「随分、ご執心だね。パンの生地がそんなに心配かい」
「あ、当たり前だろ」
 店主は立ち上がって訴えた。
「ぼくが作ったパンだ。いつも持っていくのはお前か」
 大猫は口の端をクイッと引き上げ、コックを見つめた。
「そんなに怒りなさんな。パンを持っていったのはわたしじゃあない」
「『わたしじゃない』ってことは、じゃあ、お前は知ってるんだな。パン生地を持っていくやつを」
「持っていくやつなんて知らないねえ」
 おどけた声で猫はそう言うと棚の上から店主を見据えた。
「何で無くなるのかは知ってるけどねえ」
「なんだと。それはどういう意……」
 店主の訴えを聞き流して、大猫は窓の外を見て月の光を確かめた。
「すぐにわかるよ」
 そう静かに言う声に何かが始まる確信を店主は感じた。何事が起きるのかと目を見張る。時計の針が四時四十五分を指した。
 パン生地がムクリと起き上がった。
 驚いて声も出ない店主を無視して、パン生地達はオーブンに飛び込んだ。待ちきれないようにパンが焼き上がり、膨らんだ体を揺らしながら列になって裏口から出ていく。足をもつれさせながら後を追う彼の鼻腔に香ばしい薫りが届く。その薫りが通りを横切り、町に少しずつ溶け広がっていくのをただぼんやりと見送った。
 気づくと脇を猫がすり抜けていった。
「パンにも行きたい場所があるんだ。コックさんには、迷惑かもしれないけどねえ」
 そうして猫は通りに足を伸ばしながら振り向いた。
「それじゃ、わたしは行くよ。パンの行く先を見届けなきゃいけないから」
「パンはどこへ行くんだ。お前は行き先を教えてくれるのかい」
 去っていく猫の後姿に彼は思わず声をかけた。
「さあ。でも麦粉は今朝もきっと届くよ。コックさんのパンをおいしく食べた誰かさんからね」
 猫はニヤリと笑った。それから「じゃあね。コックさん」と言って去って行った。
 店主は急いで厨房に駆け込んだ。確かにそこにはいつも通りの焦げ茶色の袋があった。中には麦粉。店主は何度も袋を注意深く眺めたが、名の塗り潰された農場が印字されているばかりだった。
「おいしく食べた誰か、か」
 名も無き農場でパンを嬉しそうに頬張る誰かを想像する。店主は自分がわずかに微笑んでいることに気づいていない。
 彼はもう一度香ばしい薫りを吸い込むと、わずかに明るくなってきた町を背後に今日の仕事に取り掛かった。
 今でもその町には、パンの消えてしまう店がある。そしてパンの大好きな泥棒猫もいる。あなたが知らない町へ行ったらそれを思い出してほしい。そして朝一番にそのコックを訪ねて彼の自慢のパンを味わってほしい。
 わたしが語れる話はここまで。


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このストーリーに関するコメント

13/08/28 四島トイ

▼凪沙薫様
 読んでくださってありがとうございます。こちらは投稿よりもずっと前に書いた作品で思い入れがあります。読み直せば赤面するほど下手な一作ではありますが、それ故に愛おしくもあります。ですからコメントをいただけたことがとても嬉しいです。ありがとうございました。

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