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きよひこさん

サラリーマン

性別 男性
将来の夢 南の島で暮らす。椅子職人になる。
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憂鬱な話

15/10/15 コンテスト(テーマ):第九十三回 時空モノガタリ文学賞【 憂鬱 】 コメント:1件 きよひこ 閲覧数:646

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 秋が近づくと日が短くなるせいか、メランコリックな話に心が傾いてしまう。大体が失恋の話か何かに。胸の中からいつまでも出ていこうとしない思いがまた現れると、自分だけが背負い込んでしまった思い出を、どうにかして遠くへ押しやるために音楽を聴く。いま私は部屋でカーラ・ボノフというシンガーソングライターのCDを聞き始める。Lose againという歌を聴くために。
『電車は行ってしまった。私をここに残して。』
こんなふうにか細い声で歌われると、もう心はメランコリックに引き込まれる。今日が日曜日の夕暮れ時なら涙ぐんでしまっただろう。しかし、こんなことはちょっとした遊びだ。本物の絶望に囚われないために、昔馴染みの友と酒を酌み交わすようなものだ。
 カーラはこんなふうにも歌った。Nothing can free me from this ball and chain この足枷から私を自由にしてくれるものなんて何もない。なくしたもの、過ぎ去った時間はすべて足枷となり人生に絡みつく。本当にそうだ。誰もが自分の過去の恋を自分だけの足枷だと思いこんでいる。だから、今日はこの話をしてみようと思う。

 アキに出会ったのは1990年の秋だった。結論から言うと彼女とはいま生活を共にしていない。つまり、失恋したと思うのだがそうではないとも思える。都合よく考えるとそうなるのだが、彼女のことが頭に浮かんでくると憂鬱な気分になる。その頃の私はなにもすることがなく、働きもせず時間をもて余していた。仕送りという拠り所と長年続けていた暇な喫茶店のバイトだけが収入と社会との接点を保っていた。その喫茶店に置いてある無限とも思えるコミックスと小説からしか学ぶこともせず、どこに自分がいるのかもよくわからないような人間だった。そんな執行猶予がついた学生時代では、何もない人間に惹かれてしまう人が現れることもままある。私も何人かの女性に言い寄られ、そしてすぐに振られた。そして、互いにその意味を理解し、傷つくこともなかった。さ迷える者達が一瞬手を取り合うことはよくある。そういうことは初めて出会った瞬間にわかってしまうことのようだ。
『貴方このとはよくわからないな。』
『僕もそうなんだ。』
 こんなふうにしか人と話が出来なかった。
 この喫茶店の客はなかなか帰ろうとしない人が多かった。ビルの4階という入りにくさと壁一面に並んだコミックスと文庫本が妙な落ち着きを醸し出し、なかなか客は腰をあげようとしない。金持ちのマスターが趣味でやっている妙な店だった。
 そんな穴蔵にアキが客として来た。何を飲んだのかも覚えていない。しかし、会計の時に事は起こった。
「すみませんが、ボールペンをかしてくれませんか。」
「はい、どうぞ。」
 お釣とレシートを渡した後、オーダーを書くときに使うペンを渡した。彼女はレシートの裏になにかを書き始めた。そして、私にその紙を手渡す。
『下で待ってます』
 読み終えたときには、彼女の後ろ姿はエレベーターの前に移動していた。

 あと2時間のバイト。もちろん携帯電話もなければポケベルなんていらない学生。なんともならず2時間働き、外に出るとアキがいた。外でみる彼女は雪の様に白く、私の目を刺した。
 なにか気の利いたことが言えれば良かったのだが何も口から出てこなかった。少し微笑んだ彼女は私に本を渡した。夏目漱石の『明暗』だった。私は人から本をもらうのが大嫌いだったが為す術もなく手に取ってしまった。その古びた本にはしおりが挟んであった。そのしおりのところを開くと、何かが書いてある。
『住所を書いてください』
 どういうわけか私はオーダーを書くペンで住所を書いた。彼女はそのしおりを掴むと回れ右をして去っていった。なにが起こったのか分からなかったが、いま思い出してもこれほど心が揺さぶられたことはなかった。
 3日後、アキが家に来た。そんな気がして部屋を綺麗にしておいた。日曜日だった。彼女は私をすり抜けるように部屋に入ると、鞄から一枚のパンフレットを取り出す。それは温泉旅行のパンフだった。
「もう読んだ、漱石。」
「昨日の晩に、全部。」
「そう。いまからここに行きましょう。」
 そう言って彼女は私に1日分の荷造りをさせたのだった。

 隣の県のその温泉に着いたのはもう夜の9時だった。温泉に入ってキスをした。でもどういうわけか彼女と寝ることはなかった。ずっとキスしていた。そして少しお酒を飲んだ。ここで話は終わってしまう。ひどく憂鬱な記憶。彼女は朝、その部屋におらず、二度と店にも来ず、部屋にも来なかった。私はあれからキスをすると彼女のことを思い出す。これが皆がもつ足枷というものなのだろう。秋になると私のこころを揺さぶる、消えない憂鬱。


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このストーリーに関するコメント

15/10/15 智宇純子

薄暗いバーのカウンターで、ドライジンを飲みながら読みたい!と思った作品でした。この季節にぴったりな憂鬱。

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