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クナリさん

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武士道考

15/05/19 コンテスト(テーマ):第八十四回 時空モノガタリ文学賞 【 江戸時代 】 コメント:4件 クナリ 閲覧数:1226

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 江戸時代と言えば、その長い太平期間に様々な文化が花開いた一大エンタテインメント期でもあります(多分)。
 そんな時代に確立された概念として武士道があります。
 この武士道が、平和な時代の新たな規律として彼らに降り立ったわけですね。

 これは逆に言えば、それまでの時代には武士道というものが存在しなかった(個々の信条はあっても、体系立てられてはいなかった)ということになります。
 成立は、日本史上で言えば、近代もいい処なのです。

 武士道云々でよく取り沙汰されるのが、源平合戦のラストシーン。壇ノ浦で源義経が平家の船団に対し、「水夫に射かけよ」と指示したというもの。
 平家の水夫は源氏の矢にバタバタ倒れて、平家の船は機動力を失って大敗。しかし当時のルールでは水夫を狙うのは反則であって、義経は武士道にはもとる、……と言われることがよくあります。自分も「源義経好きなんだー」と言うと、中学とか高校で歴史好きの同級生に、頻繁に言われました。
 まあ、義経にしてみれば「ンなもの戦場で一々構ってられるかい」と言いたいところかもしれないのですが、そもそもこの時代には武士道なんてものは存在していないので、少なくとも平家の方々は「義経め、武士道をなんと心得るーッ」と思ったりはしなかったでしょう(「ヒドイ!」とは思ったかも)。
 と言うか当時のルールがどーのという話、それが何に基づくルールなのかはよく分かりませんが、平家物語には義経がそんな指示をしたと言う記述はありませんし(多分。義経の部下が「あーもー水夫撃っちゃえ」というシーンはありますが)、そもそも「波に揺れる船の上で海風に煽られながら、数十メートル先にいてこれも船上で揺られている敵を、水夫と武者の区別をつけながら水夫だけ狙って射る」なんてことが果たして可能なのかどうなのか。
 確かに、この戦では水夫も多く死んだでしょう。しかしこれには別の理由もあり。
 「そもそも、なぜ壇ノ浦が源平の最終決戦場になったのか」という要素も関わって来ます。

 平家は源氏(て言うか義経)の相次ぐ奇襲・強襲で京を追われ、自分達の本拠地である西へと敗走して行きます。で、壇ノ浦は本州と九州の間ですから 、平家はそこで背水の陣など敷かなくても、さっさと元々の本拠地である九州へ逃げてしまえばいいわけです。
 なのに壇ノ浦の合戦の最後、平家随一の剛の者である平教経(のりつね)は源氏の将とともに入水。総大将の知盛(とももり)は必ず死ぬと覚悟を決め、鎧を二両着けて海に沈みます。
「いや、もーちょっとで九州なんだから、逃げて再起を図ればいーじゃない。ヤケクソはだめだよ! これだから男って虚無的!」
と言いたくなるのですが、なぜ彼らがこの一戦にここまでの覚悟で臨んだのかと言うと。
 どうもこの時には、既に源氏の軍が九州上陸から先の道を占領して封鎖していたようなんですね。
 その実行者と思しきは、義経の義兄、源範頼(のりより)。義経との比較で、地味だの凡愚だのと言われたい放題の彼なのですが、やることはキッチリやる男なのです。
 平家が壇ノ浦で勝てば、源氏からの分捕り品を補充に当て、再起を図れたかもしれません。が、敗れてしまえばその残存兵力では、範頼を突破するのは不可能でしょう。
 そもそもこの時点で、本拠地との連絡を断たれた平家には、武器や食料の補給も充分ではなかったと思われます。

 そう、壇ノ浦開戦時、敗走を重ねて補給もままならない平家の武具は、既に枯渇していたはずなのです。壇ノ浦は潮目が変わる程の長時間を費やして行われていますから、戦が長引くにつれて平家はどんどん不利になって行きます。
 船戦は矢の射かけ合いが主ですから、段々、豊富な武具を持つ源氏が一方的に遠巻きから平家の船を射て行くでしょう(源氏にしてみれば、わざわざ船を近づける理由がありません)。
 当然、平家側の水夫は雨のように降り注ぐ矢に次々に倒れたはずです。たとえ船上の武士が全滅しても、残った水夫が船を動かせば、源氏側はそこに戦闘能力の残存を疑って射かけるでしょう。
 結果、「源氏は平家側の水夫を射た。源氏の総大将は義経だ。義経が水夫を射させたのだ!」という結論が生じてしまう、と。

 しかし、現代での価値観はもちろん、江戸時代の武士道の概念でも、過去の合戦を倫理観や善悪で裁くことはできませんし、その意味もありません。
 まだまだ知られていないことは沢山あり、上の文章も単なる現時点での想像ですし。
 史実は必ずしも事実ならざりし、なのです。

 てなわけで、テレビで「実は卑怯だった、源義経!」などという特集があると、ちょっと半眼になってしまうのでした。
「それはいつの、誰から見て卑怯なんですか?」と思ってしまうのです!

 以上、武士道の話でした(そうか……?)。


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このストーリーに関するコメント

15/05/20 メラ

クナリさん、拝読しました。
まさしく、武士道なる言葉自体が「江戸末期」や「明治」の頃に生まれた言葉でしたっけ。最近の男子はたるんでいる、昔の武士を見習え、的な。まあ、儒教的な古典回帰な思想かもしれません。あ、別に武士道嫌いじゃないですよ、むしろ好きです。
歴史はすべて勝者の歴史。卑怯もへったくれもないのですが、後からあれこれ言いたがるものです。大事なのは「その歴史で何を学ぶか」、だと私は思います。義経が卑怯?武田信玄が悪人?家康は実は極悪人?色んな話がありますが、彼らはその時々で「しゃーない事だった」んでしょうね。

15/05/22 クナリ

メラさん>
武士道の流布の仕方といいますか、どのように受け止められて行ったのかって、勉強不足で…いまいちピンとこないんですよね。
幕末のころには、ちまたの武士たちはどんな思想で剣を振っていたのだろうとか…。
考え方自体は、好きなんですけども。いいか悪いかは置いといて、ですけどね(^^;)。
歴史上の人物の行いも、善悪では計れないですよね。当時は問題なくても今考えれば卑怯者、あるいは逆に今だから再評価…ということもあるわけで。
史実は事実ではありませんもんね。
本当、どう捉えて生かすか、なんですよね。

15/08/06 滝沢朱音

面白かった!すごくすごく勉強になりました。
九州への道が封鎖されているのなら、もう逃げられないと思って入水するのもよくわかりますね。
クナリさんの知識の幅広さ、すごいなあとあらためてびっくりです。

15/08/07 クナリ

滝沢朱音さん>
自分日本史好きなものですから(ていうか平安と幕末と平安と、あと幕末なッ)、なるべく歴史というものへの敷居を低くして、面白そうで楽しそうな歴史を提供できたら嬉しいのです(噛み砕きすぎるのもよくないですけどね)。
この源義経卑怯者論は、義経非美形論(ほんとはぶさいくだった! みたいなの)と同じくらい、義経ファンが聞かされてきたお話なのです。
それに一石を投じられれば、嬉しいのです。
昔から、「西国(九州)に本拠地を持つはずの平家が、なぜ壇ノ浦で全てをかけたんだろう?」って不思議だったんですけど、それを知ったのはずいぶん後でしたね…。
幅広いなどとはとんでもありません、多少話せるのは平安と幕末、あとは平安と幕末とかあと幕ま(以下略)。

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