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15/04/20 コンテスト(テーマ):第八十回 時空モノガタリ文学賞 【 テーブルの上 】 コメント:0件 山中 閲覧数:798
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更衣室へと向かいながらエプロンの紐をほどいていると、店長の呼ぶ声が聞こえ私は足を止めた。「大沢さん、悪いんだけど少し残業に付き合ってくれないかな」 店長は申し訳なさそうに首筋の辺りを撫でながら私にそう尋ねてきた。それは店長が困ったときや照れ隠しのときに見せる仕草だった。 壁に掛けられた時計に視線を移すと、すでに午後十一時を回っていた。あと一時間もすれば終電を逃してしまう。私の不安げな表情に気がついたのか、タクシー代はもちろん出すよ、といって店長は笑った。 主人はきちんと晩御飯を食べただろうか。ふいにそんなことが頭に浮かんだ。そういえば主人はどんな顔で笑っていただろう。二人で笑い合った時期は確かにあるのに、記憶の隅に置いてきてしまった。店長の笑顔に主人の姿を重ねてみたが、上手く思い出すことができない。私はそんな店長の笑顔に曖昧に答えてから、残業を引き受けることにした。 郊外にあるショッピングモール、和を中心としたこの雑貨屋で働き始めてもうすぐ一年が過ぎようとしていた。 誰もいない店内は、数時間前の雑踏が嘘のように静まり返っている。普段とはまるで違う現実に足を踏み入れたみたいで、整然と並んだ商品が私を見ているような気がした。 「最近うちの子がいたずらばかりしてね」 作業の手を休めることなく、店長は私にそう話しかけてきた。店長は三十代半ばで、私よりも五つほど年上だったが、ほぼ同い年の主人よりもはるかに若く見えた。 彼には二人の子供がいる。奥さんとは数年前に離婚したらしいが原因は聞いていない。私には子供がいなかったが、店長の子供たちの話しを聞くのは嫌いではなかった。こうやって店長と話しをするようになったのはいつからだろう。誰かと話しをすることの楽しみを、私はずいぶんと長い間忘れていたような気がする。「余計なことかもしれないけど、旦那さんはどう?」 店長には以前、主人のことについて話したことがあった。それほど親しくもない人に話すようなことではなかったが、店長の人柄と私の精神が不安定だったせいだと思う。主人のことを話した後、やっぱりやめておけばよかったという思いと、気持ちが少し楽になれた自分が嫌だった。 主人が仕事に行かなくなったのは二年ほどのことだ。私に相談があったわけではなく、主人はただ仕事に行くことをやめ、そして家から一歩も外に出なくなった。そのことについて何度か話し合おうとしたこともあったが、はっきりとした答えは何もなく、最後には決まって怒鳴り声を上げた。しばらくすると、主人は些細なことで怒るようになり、よく家の中の物を壊すようになった。私が仕事を始めたのは収入が必要だったことと、家にいることが辛くなったからだ。 ある日家へ帰ると、テーブルの上にいくつもの雑誌が置かれていることがあった。カメラやオートバイ、オーディオ関係からスポーツ雑誌まで、どれも主人の趣味ではなかったし、それらは今の私達にとって意味のないもので、このひとは仕事もせず一体何をしているのだろうと怖くなった。そして日に日に増え続ける雑誌を見る度に、私はひどく疲れるようになった。そのことを話すと、店長はうなずきながら口を開いた。「正直僕には何もわからないし適当なことはいえないけれど、彼は自分を大切にできなくなったんだと思う。心配なのは大沢さんがそういった影響を受けてしまうことで、お互いが駄目になってしまうことなんだ。人が抱える悩みというのは、自分の思い通りにならないことが理由で、解消されることもない。だからそういうときは、考え方を変えてみることが重要なんじゃないかな」 残業を終え、店長にお疲れ様をいってから私が駅に着いたのは午前一時前だった。タクシー乗り場には、何人かの乗客が列を作っている。暖かい春の陽気も夜になればまだ肌寒く、私は自分の腕を軽く擦った。 タクシー乗り場の列に並びながら、私は店長のいった言葉を思い返していた。考え方を変えるというのは正しいのかもしれない。私はつねに、これからのことや主人とどう接していくかだけを考えていたような気がする。ただそれをどう変えていくのかは、しっかりと自分で探していかなくてはいけない。人々が次々と私の前から姿を消し、街の空気が静けさを取り戻し始めた。やがて街頭や看板のネオンに混じり、大きなヘッドライトが私の側へと近づいてきた。 タクシーに乗り込み、笑顔で行き先を尋ねてきたのは人の良さそうなおじさんだった。特別なことをする必要はないし、無理をすることもないのかもしれない。今できることだけをやってみよう、と私は思った。 そして後部座席のドアが閉まると、私は笑顔で行き先を告げた。
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更衣室へと向かいながらエプロンの紐をほどいていると、店長の呼ぶ声が聞こえ私は足を止めた。
「大沢さん、悪いんだけど少し残業に付き合ってくれないかな」
店長は申し訳なさそうに首筋の辺りを撫でながら私にそう尋ねてきた。それは店長が困ったときや照れ隠しのときに見せる仕草だった。
壁に掛けられた時計に視線を移すと、すでに午後十一時を回っていた。あと一時間もすれば終電を逃してしまう。私の不安げな表情に気がついたのか、タクシー代はもちろん出すよ、といって店長は笑った。
主人はきちんと晩御飯を食べただろうか。ふいにそんなことが頭に浮かんだ。そういえば主人はどんな顔で笑っていただろう。二人で笑い合った時期は確かにあるのに、記憶の隅に置いてきてしまった。店長の笑顔に主人の姿を重ねてみたが、上手く思い出すことができない。私はそんな店長の笑顔に曖昧に答えてから、残業を引き受けることにした。
郊外にあるショッピングモール、和を中心としたこの雑貨屋で働き始めてもうすぐ一年が過ぎようとしていた。
誰もいない店内は、数時間前の雑踏が嘘のように静まり返っている。普段とはまるで違う現実に足を踏み入れたみたいで、整然と並んだ商品が私を見ているような気がした。
「最近うちの子がいたずらばかりしてね」
作業の手を休めることなく、店長は私にそう話しかけてきた。店長は三十代半ばで、私よりも五つほど年上だったが、ほぼ同い年の主人よりもはるかに若く見えた。
彼には二人の子供がいる。奥さんとは数年前に離婚したらしいが原因は聞いていない。私には子供がいなかったが、店長の子供たちの話しを聞くのは嫌いではなかった。こうやって店長と話しをするようになったのはいつからだろう。誰かと話しをすることの楽しみを、私はずいぶんと長い間忘れていたような気がする。
「余計なことかもしれないけど、旦那さんはどう?」
店長には以前、主人のことについて話したことがあった。それほど親しくもない人に話すようなことではなかったが、店長の人柄と私の精神が不安定だったせいだと思う。主人のことを話した後、やっぱりやめておけばよかったという思いと、気持ちが少し楽になれた自分が嫌だった。
主人が仕事に行かなくなったのは二年ほどのことだ。私に相談があったわけではなく、主人はただ仕事に行くことをやめ、そして家から一歩も外に出なくなった。そのことについて何度か話し合おうとしたこともあったが、はっきりとした答えは何もなく、最後には決まって怒鳴り声を上げた。しばらくすると、主人は些細なことで怒るようになり、よく家の中の物を壊すようになった。私が仕事を始めたのは収入が必要だったことと、家にいることが辛くなったからだ。
ある日家へ帰ると、テーブルの上にいくつもの雑誌が置かれていることがあった。カメラやオートバイ、オーディオ関係からスポーツ雑誌まで、どれも主人の趣味ではなかったし、それらは今の私達にとって意味のないもので、このひとは仕事もせず一体何をしているのだろうと怖くなった。そして日に日に増え続ける雑誌を見る度に、私はひどく疲れるようになった。そのことを話すと、店長はうなずきながら口を開いた。
「正直僕には何もわからないし適当なことはいえないけれど、彼は自分を大切にできなくなったんだと思う。心配なのは大沢さんがそういった影響を受けてしまうことで、お互いが駄目になってしまうことなんだ。人が抱える悩みというのは、自分の思い通りにならないことが理由で、解消されることもない。だからそういうときは、考え方を変えてみることが重要なんじゃないかな」
残業を終え、店長にお疲れ様をいってから私が駅に着いたのは午前一時前だった。タクシー乗り場には、何人かの乗客が列を作っている。暖かい春の陽気も夜になればまだ肌寒く、私は自分の腕を軽く擦った。
タクシー乗り場の列に並びながら、私は店長のいった言葉を思い返していた。考え方を変えるというのは正しいのかもしれない。私はつねに、これからのことや主人とどう接していくかだけを考えていたような気がする。ただそれをどう変えていくのかは、しっかりと自分で探していかなくてはいけない。
人々が次々と私の前から姿を消し、街の空気が静けさを取り戻し始めた。やがて街頭や看板のネオンに混じり、大きなヘッドライトが私の側へと近づいてきた。
タクシーに乗り込み、笑顔で行き先を尋ねてきたのは人の良さそうなおじさんだった。特別なことをする必要はないし、無理をすることもないのかもしれない。今できることだけをやってみよう、と私は思った。
そして後部座席のドアが閉まると、私は笑顔で行き先を告げた。