1. トップページ
  2. 静まることの先のこと

encoreさん

柿食えば 鐘が鳴るだよ ほうれん草

性別 男性
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

0

静まることの先のこと

14/10/19 コンテスト(テーマ):第四十二回【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 encore 閲覧数:585

この作品を評価する


「あなたの匂いがする…」

寒そうにしていた彼女に、首のつまったカシミヤのニットを差し出した時、彼女はそれを両手に大事そうに持って、そうひっそりと呟いた。それは、吐息混じりの、淡い街灯の光が消えかかるような、頼りない声だった。

「あたたかいよ、カシミヤで出来てるんだ。毛布を着ているような、着心地さ」
「あなたって、いい匂い…」

日が暮れると肌寒くなる。薄手のカーディガンとスウェットパンツ、サンダルという身なりで玄関先で待っていた彼女は、うずくまっていた。猫と猫同士が身体を摺り合わせるように、彼女もまた、自分の身体と身体を摺り合わせて、これ以上寒くならないようにと、外気の温度に、微力ながら抵抗をしている。ドアの上部に取り付けられている灯りは、彼女の孤立さをさらに演出させるように思えた。

「どうしたんだい」

買い物から帰って来た時にはすでに、彼女の手は氷のように冷たくなっていた。うずくまる彼女の横について、肩を抱きながら、彼女の左手に僕の左手を添えた。

「連絡してくれれば、すぐ向かったのに。大丈夫かい」
「ごめんね」
「中に入ろう、温かいものでも飲みなよ」
「ありがとう」

うずくまっている彼女を、そっと立たせ、右ポケットにある水色のキーケースを取り出し、鍵穴に鍵を差し込んだ。カチッと音がした。僕はドアノブを引き、彼女を先に玄関の方へ歩かせた。サンダルが地面を叩く音は、どこかしらに虚しさがあった。彼女の背中は、いつも以上に小さい。

靴を脱ぎ、俯いている彼女を先頭に、両手で両肩を抱きながら、キッチンを抜けて、メインルームへと向かう。彼女に何があったのだろう。

「ほら、もう大丈夫さ、毛布もあるし、必要ならシャワーも浴びられる。部屋はそこまで綺麗じゃないけど、とりあえず、僕がついてるよ」
「ありがとう…」

一向に顔をあげない彼女に、僕は不安を覚えた。わからないということに対して、それを認めることができないと、僕はいつも不安になった。わからないのに、わかろうとあれこれ思考をする。それでも一向にわからなければ、わからないということを認めることが、最善の道なのかもしれない。それでも僕は、考えた。

「もしさ、何か言いたいことがあったら、いいなよ、もちろん、強制はしないよ、君のタイミングで、君が言いたいと素直に思った時に。その時は聞くからさ」
「うん、ありがとう」

クローゼットから、僕は一枚のカシミヤ素材で出来た暖かいニットを取り出した。それを、薄手のカーディガンを着ている彼女に差し出した。彼女は無言でそれを受け取り、おもむろにそのニットの匂いを子猫のように、嗅いだ。両手に大事そうに持ったニットを顔にうずめ、彼女は少しの間、黙ってしまった。もとより、彼女はこの部屋に来る前から、口数は少なかった。何かを語りかけても、吐息混じりの、淡い街灯の光が消えかかるような、ほそぼそとした声で、呟いていた。それでも彼女は、彼女であることの意思表示を、僕に声という形で、しっかり示してくれていた。僕は、この後、何も語りかけられずに、寒風に吹かれる木々のように、そこに立っていた。彼女は、安心したように、黙り込んでいる。彼女は、彼女として、そこに、あった。

「あなたの匂いがする…」

僕が何かを語りかける前に、彼女から身を寄せてきた。身体それ自体を寄せたわけではない。スポンジに押し込まれたボールを取り除き、元の形状に戻ったそれを、別のスポンジと合わせたような、柔らかいニュアンスのそれであった。僕は、その居心地の良さに、彼女を抱き締めたい気持ちになった。

「あたたかいよ、カシミヤで出来てるんだ。毛布を着ているような、着心地さ」
「あなたって、いい匂い…」

全ては把握できなかった。

「隣、いいかな」
「うん」

冷えていた手は、ニットのあたたかみが、それを緩和させた。彼女はニットを着ずに、大事そうに抱き締め、僕は彼女を見つけた時と同じように、片方の肩を抱いた。

それからいくらの時間が過ぎたのであろう。気づけば、僕らは眠っていた。彼女はバランスを崩し、黒いカーペットに横たわっていた。カシミヤのニットは、まだ握られていた。どんな夢を見ているのだろう。それは、僕にはわからなかった。
わかるはずもなかった。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン
アドセンス