1. トップページ
  2. 路地裏の、誰も聞こえない咳

クナリさん

小説が出版されることになりました。 『黒手毬珈琲館に灯はともる 〜優しい雨と、オレンジ・カプチーノ〜』 マイナビ出版ファン文庫より、平成28年5月20日発売です(表紙:六七質 様)。 http://www.amazon.co.jp/dp/4839958211

性別
将来の夢 絵本作家
座右の銘 明日の自分がきっとがんばる。

投稿済みの作品

7

路地裏の、誰も聞こえない咳

14/09/26 コンテスト(テーマ):第六十七回 時空モノガタリ文学賞【 秘密 】  コメント:14件 クナリ 閲覧数:2208

時空モノガタリからの選評

人を真に理解すること、ありのままの自分を表現することは、なんと難しいことでしょうか。悪意はないにせよ不正確な認識が、人の人生を縛ってしまうこと、期待される像を演じることの苦しみと困難さ、様々な問題が含まれていて考えさせられる作品でした。「手記」においてさえ、期待された像を完全に脱ぐ事ができなかったとすれば、切ないですね。また永遠に見捨てられた廃駅のロッカー、道筋の決められてしまった鉄道レール上の死が、まるで彼の人生を象徴しているようでした。

時空モノガタリK

この作品を評価する

『僕は、吃音だ。
けど、知的障害よりも生き易い、ということもない。
人は、目や耳の不具合には寛容な愛を示すが、発音の不自由は、甘えや、工夫の不足とみなす。
吃音持ちに「ゆっくりでいい、はっきりと話してごらん」と言うのは、盲目の人に「頑張って、よく見てごらん」と言うのと、同じだと言った人がいる。
僕もそう思う――』

一九六九年、ポーランドの少年、イギール・ポンセが鉄道事故で死んだ。
享年十六歳。
状況から見て自殺だったが、両親や町人からは、彼の知的障害が招いた事故である可能性が示唆された。



イギールが自分の吃音に気付いたのは、小学校の時だった。
級友達が流暢に話す中、自分は常にひどくどもり、言いたいことの半分も話せない。
日々周囲の驚きと、戸惑いが強まって行く。
だが、両親が自分を障害者として受け止めた上で愛してくれている事実には感謝した。
ただ、両親の事態把握は、正確ではなかった。
幼い息子の言語機能に不全を認めた両親は、彼を知的障害者だと判断した。
“上手くしゃべれない”という障害があるなどと、両親は発想もしなかった。
日常の様子から見て重度の障害とは(当然)思えなかったから、医者にもかからず、普通小学校へ入れた。
吃音自体、当時障害としての実情が正確に知られてはおらず、両親を責められはしない。
寛容で深い愛情はイギールを、社会の中で不正確に位置付けてしまった。

両親の息子への接し方が、愛情に満ちながらも“知的障害者”に対するそれなのだとイギールが気付いたのは、十二歳の時だった。
愕然とした、という。
認識の誤りから来る両親の気遣いに、イギールは、枝葉と根を断たれた若木のような気分になった。
だが、本当のことは言えない。
事実が両親に与えるダメージを、彼は恐れた。
知能は無瑕疵の子供を、ずっと知的障害者として扱って来たとしたら、父母はどんな思いをするか。
二人には、何の落ち度もない。我が子の苦難に向き合い、精一杯の愛情を与え続けただけではないか。
それに真実を明らかにしたとして、その後自分達は、健全な親子関係を築けるのだろうか。
イギールは、その未来にこそ、心底怯えた。
結果、彼の選択は現状の維持だった。
いや、少々の変化はあった。
イギールが人前で、やや知的障害者らしく振舞うようになった、という点で。



イギールを壊したのは、幼馴染のある少女だった。
少女は優しく、思慮深く温かに、軽度の知的障害者としてのイギールに接していた。
イギールはいつしか、本当の自分として彼女に接したくてたまらなくなっていた。
そして懊悩の果てに、ついに長き誤解を解き、本当の自分を生きる決心をした。両親とも、改めて向き合う覚悟を決めて。
少女への告白は秋の午後、静かな公園の隅。
――隠していてごめん。僕は実は、知的障害ではない。だが、吃音だ。
興奮と緊張のせいか、珍しくどもらない。
少女は驚きながらも、真摯に答えた。
「どもるらい、大したことないわ。あなたは私達と、何も変わらない」
微笑む彼女の前で、だがイギールは、己の心臓が潰れる音を聞いた。
吃音との付き合いは、彼の半生そのものでもある。
自分は、人と、確かに違うのに。
これまでの人生と同じ重さの苦痛も、忍耐も、決意も、己の全てが無意味化されてしまった、とイギールは感じた。
秘密という繭を破り、産まれて初めて剥き出しになった少年は、初恋の前にあまりに脆かった。
そして、真実を共有して寄り添ってくれる人が、彼には一人もいなかった。
秘密が彼を、あまりにも孤独にしていた。
彼が死ぬ、十日前のことだった。



上記の事柄が世に知られたのは、イギールの死から四ヶ月後。
彼の手記――日付からして、遺書――による。その書き出しが、冒頭の文章である。
彼の家から三十キロ離れた廃駅の木製ロッカーから、近所に住む探偵趣味の高校生の一団がそのノートを見つけた。
両親始め関係者は、「誰かがふざけて用意した偽物だ。本人のものなら、なぜそんな所にあるのか」と反駁した。
確かに、ともすれば、永遠に見つからない場所である。
永遠に、誰にも。

吃音を筆記によってカバーする人もいるが、イギールにはそれも許されなかった。
手記が本物だとすれば、彼は最後に初めて、秘め続けた真実を言葉に出来たということになる。

少なくとも一九八九年の段階では、両親は手記の筆跡鑑定を拒否し続けている。
不誠実だろうか。だが、社会には判じられない。
なお、知的障害者として振舞っていた少年が我が家に残した“障害者らしい文字”が、彼本来の文字として鑑定に適するかどうかは、不明である。

この話に付すべき解釈も、意見も、考察も、結論らしきものを私は持たない。
私は、イギールでも、両親でもないからだ。
それでも、ひとまず、伝える。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

14/09/26 クナリ

本作は創作ですが、製作に当たり、下記を参考文献として用いました。
なお、障害についての描写が不適切であったり、明らかな誤謬、妥当でない箇所があれば、その原因は参考文献によるものではなく、全て筆者の責によるものです。
・『シリーズ言語臨床事例集第9巻 吃音』
学苑社 2004年3月25日発行
・『吃音は治せる』
マキノ出版 2012年3月24日発行
・『吃音と生きる』
東京書籍  2014年8月1日発行

14/09/26 滝沢朱音

クナリさん、こんばんは。

迫真の内容に、すっかりノンフィクションだと思い最後まで読んでしまいました!
少し前に「英国王のスピーチ」を見ていろいろ考えさせられたのですが、
吃音という難しいテーマに、こんな凄いストーリー展開。うなります。

少女の思いやりと、そのためにアイデンティティを見失ってしまった少年。
せつないですね……

14/09/27 夏日 純希

こういう系統の文章ってあまりここでは見なかったので、
ちょっと驚きつつも拝読いたしました。

考えさせられますね。他人のことなんて、わかったようで全然そうでなかったり。
本気でわかろうとしたのであれば、なおさら悲しくなります。
クナリさんの作品はいつも本当に深くて唸らされます。

14/09/28 橘瞬華

自分の人生で最も重荷となっていたものが、他人から見ると大したものでなかったり、他の重荷と変わらなかったりすること。それを知ることで軽くなって歩いていくことが出来る、というのが私が生きてきた道筋だったので、ああそうか、重くなることもあるのかと新しい視点が拓けました。幼なじみの少女の言葉と似たようなことをたくさん言ってきたけど、それが無神経に感じられることもあるのだなぁと。
彼の手記や死と言ったものは口には出せない彼なりの自己表現の形だったのかもしれませんね。考えさせられました。

14/10/01 タック

「あなたは私達と、何も変わらない」
障害者、コンプレックスを持つ人々への歩み寄った同化の思いやりが、その人自身を破壊する可能性。
皆を平衡にすることが、救いに繋がることでは決して無いのだなと思わせられました。

14/10/04 クナリ

滝沢朱音さん>
努めて「ノンフィクションっぽく」と思いながら書きました。
主人公に特定のモデルはいませんが、吃音のせいでうまく物事が伝えられないと両親や周囲が「知的障害では?」と疑う、というのはよくあるそうです。
どもったりつっかえたりというのは単にやり方がまずいだけで、落ち着いてゆっくり話せば誰でもすらすらとしゃべれるものだろう…という概念があるためのようで。
参考文献に挙げた『吃音と生きる』の著者の方は、『英国王のスピーチ』でのような吃音の描かれ方も、あまり好意的には受け取れないようでした(遅れた捉え方であり、ステレオタイプの解釈だと)。
反対に、映画の題材として扱われたことを歓迎している方々もおられ、安易に枠でくくるようなことは出来ないものですね。
吃音を題材にするのは自分でも躊躇する部分はありましたが、好意的に受け止めて頂いたようで、安堵しております。
ありがとうございます。

夏日純希さん>
ちょっと固い文章で記述してみました。
何らかの主張や問いかけではなく、あったことをそのまま書くような感覚でした。
これも参考文献にあったのですが、「気遣われたり、同情されるようなことは非常に嫌だけど、最悪なのは健常者に、『吃音なんてなんでもないよ。僕らは平等な人間じゃないか』と善意で言われることだ」と。
吃音とともに日々を生きていることをないがしろにすることは、その人の尊厳をないがしろにすることなのかもしれません。
けれどもちろん、そうした感じ方も人によって違うわけで。
男と女、年代と年代、あの国とこの国、あの肌とこの肌、その他諸々の枠組みが人間社会にはありますが、全員が違う人間でもあります。
自分の主義を表明するだけで、誰かを傷つけてしまうこともあったり。
分かり合うということは、本当に大変ですね。

橘瞬華さん>
コメント、ありがとうございます!
善意が必ずしも、よい結果になるとは限らないということなんですよね。
「あなたにはわからない」というのを、交流によって解消できると信じてしまうのは危険であると。
障害そのものではなく、すごく努力してそれと対決したり解決法を見出そうとする行為を「大したことではない」といわれてしまえば、確かに「じゃあ、自分て何なの?」と思ってしまいますよね…。
問題を矮小化するのではなく、相手の人格を矮小化してしまいかねないわけですから…。
自分のせいで人を傷つけることを恐れる優しさは、孤独と結びつくと、周囲からは手の出しようがなくなったりします。今回の主人公の場合は、「誰にも見つからないかもしれないけど、存在しないわけではない」という形で手記を残すのが、せめてもの自己表現でした。

タックさん>
ありがとうございます。
健康であることは、とてつもない幸運と幸福なのだということが、それを失って初めてわかる…とはよく言いますが、自分自身、それをちゃんと実感できてはいないんだろうなと思います。
何らかのハンデそのものがアイデンティティなのではなく、それとの付き合い方がその人の人格形成に大きくかかわって、人間性としてのアイデンティティを確立するのは確かでしょうから、誰もが誰かと「何も変わらない」なんてことはないんですよね。
人種、地域、国籍、性別。もっと言えば年齢、家族内での位置、生まれた季節まで、様々な線引きが人間にはされていますが、「大体同じだけどみんな違う」ということをもっと意識しなければならないのかもしれません。
「私はこう。あなたはどう?」という、個人レベルでの線引きと認識を軽視することは、実はコミュニケイション失敗の第一歩なの…かも?

14/10/13 クナリ

OHIMEさん>
なんかこう、一時期、「皆一緒だよ、何も変わらないよ」という言葉が、特効薬みたいに扱われているように感じていたんですよね。
そういうものなのかなあ、それが正しい基本姿勢なのかなあ…と考えているころにこれらの参考文献に出会いまして。
で、これを題材にしようと思ったのです。
好事魔多しと言いますか、「これさえあれば!」という光明が見つかった時程気をつけなければならないなあと。
言葉をきっかけにアイスブレイクを試みるのではなく、一人ひとりと向き合った上で意味のある言葉が生まれるといいのですが。
「人によりけり」というのはまさにそうであるなあと思います。
もちろん、「何も変わらない」という言葉を忌避しよう、と主張したいわけではありませんしね。
コメント、ありがとうございました!

14/10/16 そらの珊瑚

クナリさん、拝読しました。

ひとりの少年の苦しみ、短かったけれどほんとうにそこに生きた人生が
あるかのように描き出されていていて、あらためてすごい筆力だなあと思いました。
約半世紀前、今ほど吃音というものが解明されていなかった時代に生まれてきた悲劇ともいえなくはないかもしれませんが
現代においてもそれを治すのは難しいと聞きます。

14/10/17 クナリ

そらの珊瑚さん>
コメントありがとうございます。
吃音を「直す」というのも、様々な解釈があるようです。
ある程度流暢にしゃべれるテクニックがあり、これを練習することを推奨するかたがたもおられれば、逆にそのテクニックこそがあだになるのだ、という声もあり…。
掌編の中で登場人物の人生を描くというのは難しい部分もあると思うのですが、評価していただけてうれしいです。

14/10/20 光石七

本当にイギールという少年のことを調べて書いたのではないかと思ってしまうほど、深くて、文章が緻密で……。
「あなたは私達と、何も変わらない」、まさかこの台詞がイギールを追い詰めてしまうとは。安易な平等主義(?)に潜む危険に気付かされます。
秘密は人を孤独にする。
一体どうすれば一番よかったのでしょう?
考えさせられる作品でした。

14/10/21 クナリ

光石さん>
このような、「本当にあったっぽい語り口」でこうした題材を扱うことがいいのか悪いのかは分かりませんが、ひとまず今の自分にできるベストの形、という感じで。
リアリティを出せておりましたでしょうか?
特に最近の介護の現場などでは「個人個人と向き合うこと」の大切さが語られますが、その「向き合ってる最中」だってトラブルは起きるわけで。
開示できない秘密を、他人にはどうすることもできないですからね…。

14/11/26 しーぷ

拝読しました(*´∀`人)

ほんとにそうなんですよ
盲目の人によく見てごらんと
足のない人に走れと
耳の聞こえない人にどうしてちゃんと話を聞かないのと
誰もが当たり前のように出来ていることが
できない
ソレができないなんて思わないから
みんな平然と言うんですよね
落ち着いて喋れと
特に乞音となると
外見で判断できないし、注意深く観察しても分かりにくい
なによりも、認知度が理解度が低すぎる

、、作品の感想でなく乞音の話になってすいません( ̄▽ ̄;)

14/11/27 クナリ

CPUさん>
吃音という症状(障碍)について、世間の理解はまだまだ浅いのだろうと思います。
自分自身、今回調べだすまではさまざまな誤解をしていることに気づかされました。
そして生半可な知識を得て、画一的で万能の対応が可能になるという思い込みもまた毒なのでしょう。
今回はフィクションの物語を構成しましたが、あくまで描写したのは主人公らの行き方であって、障碍との向き合い方ではありません。
そんなことが、ひとひらの小説ごときにできるわけがないとも思っています。
何をおっしゃるのですかっ、大変ありがたいコメントです。
ありがとうございました!

ログイン