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三条杏樹さん

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最後の産声

14/06/27 コンテスト(テーマ):第六十回 時空モノガタリ文学賞【 涙 】 コメント:2件 三条杏樹 閲覧数:991

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母の息子として生まれてから、この人のそばで気を抜いた試しがない。母は十九歳で私を産み、女手ひとつで育ててきた。

「あんたが、あたし似でよかった。父親に似てたらとっくに捨ててる」

よくそう言っていた。
私は母の言葉に逐一相槌を打たなければ、激しく責め立てられることを分かっていた。母は私の人格を否定し、、今すぐにでもドブに捨ててやると言い放つ。

しかし私は泣いたことがなかった。産声をあげてからというもの一度も泣いたことがないのではないかと思うほど、その記憶はなかった。むしろ、黙って聞いている私を母は煩わしいと思っていたのだろう。
それでも、手を上げられたことはなかった。
いつでも殴られる覚悟ができていた私は罵られるたびに硬直し、ひたすら「うん、うん」と言い続けた。母は決して私をぶったりはしなかった。代わりに言葉で刺し続ける。

産まなきゃよかったと言われても、私は泣かなかった。



中学生のある日、学校から帰ると仕事に行っているはずの母がアパートにいた。
部屋の薄いカーテンが切り刻まれ、母の手には包丁が握られている。それを見た私は急いで母の元に駆け寄った。
ズタズタに引き裂かれたカーテンが、だらりと垂れる。シミがついた壁には母が包丁を突き刺した跡。そっと母の手から包丁を抜き取ると、憎々しい声が聞こえた。

「死んでやろうと思ったのに・・・あんたが、いると思ったら死ねなかった。あんたのせいであたしは死ぬ自由もないの」

泣きながらうずくまる母に、なんと声をかけるのが正解だったのだろう。


「なら、堕ろせばよかったのに」


喉元まで出かかって、声に出さなかった。
痛々しいほどの母の姿を十何年見ていて、とてもそんなことを言う気にはなれない。
それよりも、耳を塞ぎたくなるほどの慟哭をやめてほしかった。


「あたしが妊娠したとき、お父さんはあたしを死ぬほどぶったのよ」

酒が入った母はよく自分の父親の話をした。きまってその内容は、自分がどれほど厳格な父に育てられたか。

「お母さんが止めてくれなきゃ、あんたも死んでたかもね。あたしは家出てって、後悔してない。あの人、自分の女癖を棚にあげてあたしに怒鳴って・・・」

狭いアパートの一室に、母の呪いがどんどん溜まっていった。父への呪い、私の父親にあたる男への呪い、世の中への呪い。

「女が子ども一人育てるのにこんな苦労するなんて、こんな国さっさと潰れればいいのに」


酒を飲む手は止まらない。私は母の言葉を右から左へ。相槌は忘れずに。


母はよく泣いていたが、私はなかなか涙を流すことをしなかった。
友達と喧嘩をしても、担任に叱られても、自転車にはねられて頭が血だらけになっても、母に「消えて」と言われ真冬に一人、アパートの階段下で過ごした夜中でも。

私の目は「涙」というものを精製しなかった。




それから三十年余りが経ち、私の元に一本の電話が入った。母がしきりに私を呼んでいる、という病院からの電話だった。

母は病院で寝たきりの状態となり、痴呆も相当進んでいた。私が息子と妻を連れて見舞いに行っても、嫁と孫のことはおろか、息子である私のこともわからなかった。自分に子どもなどない、という始末だ。
そんな母が私を呼んでいるとは信じ難かったが、車を走らせる。
ふと、疑問が浮かんだ。
私は母が死んだとき、涙を流せるだろうか。
言葉で罵られた少年時代。母はすべての憎しみを、怒りを私にぶつけていた。育てられてはいたが、「愛された」記憶は皆無だ。





そして、母はやはり私を呼んでなどいなかった。病室で一人、微かな呼吸からその生命を静かに流れ落としていた。
「母さん」
虚ろに泳ぐ目。私はベッドのそばの椅子に腰掛け、じっとその女の顔を見ていた。息子のことも忘れたこの人を、母と呼ぶ違和感。ネクタイをゆるめ、ため息をついた。

「・・・・赤ちゃん」

「え?」

母の口からこぼれたその言葉は、なんとも弱々しく、切実だった。
「わた、しの・・・赤ちゃん、どこ」

その目はさまよい、手は僅かに震えていた。指一本動かすことをやめていた母が、腕を上げた。
「母さん」
その手を握る。痩せこけ、骨の筋が浮きあがり、冷えた指。幼少期、一度も握ったことのない手を包んだ。
「わたし、こどもが・・・・男の子がいるの・・・かわいい私の・・・」

しゃがれた声が、確かに言った。

「かわいい私の、赤ちゃん」

母の手が、私の手を握り返した。

静かに流れていく命。その最後に求めているものを、確かに聞いた。母は、私を探している。
「母さん、俺はここだよ・・・」

決して私を捉えない目。薄く開いた口から、私の名前が生まれた。


私は徐々に消えていくその熱に額をあてて、声を上げずに泣いた。



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このストーリーに関するコメント

14/06/28 草愛やし美

三条杏樹様、初めまして、拝読しました。

お母さんの真意がわかったのですね。育てることは大変だったと思います。きっと、産む前から、お母さんは、世界中の敵意に満ちた人々から、主人公である彼を守って育てられて来られたのだと、思いました。
泣けないと思った彼にも涙が流れるラストに、読み手の私も感動でうるっとしてしまいました。ある意味、日常に泣くことがなかっただけに、より深い母子の絆が結ばれたのではないかと感じました。とても、いいお話だと思いました。

14/07/12 佳麓

 拝読させて頂きました。
 愛する事、優しくする事、大事にする事、全部がイコールで結ばれていたら、もっと幸せな世の中になれるんだろう。なんて考えてしまいました。
 女性の視点だから書けるのでしょうか?切なくなりました。

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