タックさん

がんばる。

性別 男性
将来の夢
座右の銘 明日の自分に期待は持たない。

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斜面

14/06/16 コンテスト(テーマ):第五十八回 時空モノガタリ文学賞【 転がる石のように 】  コメント:4件 タック 閲覧数:1080

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――男は転がっていた。文字通り、転がり続けていた。傾斜だった。冷たい土の上だった。草の濃密な匂いが広がっている、山の下った一か所だった。男は障害にぶち当たることもなく、ひたすらに下降し続けていた。丸太のごとき、様相だった。男は、普通の男だった。山登りが趣味の一般的な男だった。それがこのような状態に置かれていた。その意味を、男は分からずにいた。なぜ自分がいつまでも転がり続けているのか、耳に速度の風を感じながら回転を続けているのか、不安と疑問を覚えながら、それでも止まる事はできず、山のなかを勢いよく下っていて、ああ、という嘆息も、声にならずに掻き消されるばかりだった。

 男の景色は、ぐるぐると回っていた。深緑、青、茶色、男の視界は様々な色彩で埋められていた。絵筆でのばされた絵の具のように、色が混在し男の目を占拠していた。そのなかで男はこの災いを喚起した原因を考えていた。しかし、どうにも思い出すことができなかった。登山の目的で、この山を訪れたことは覚えていた。山の中腹まで、緩慢に辿りついたことは覚えていた。しかしそれ以降の情景、記憶というものが、はっきりと欠落していた。水を飲み、靴紐を結び直し、喧騒から離れた自分を思いほっとした、そのような感慨や光景は思い浮かんだが、やはり、自分がこうなってしまった要因というものは、男の頭からすっぱりと切り落とされているのだった。もはや、地面と空気と自身の境界すら、男には曖昧だった。痛みすら、男の時間からは取り残されていた。
 
 そしてどれほど回転し、どれほど進んだのだろうか、と男が血の上った頭で考えていた時、耳朶にかすかな音が聞こえた。雑音ともいうべき音だった。男は耳を澄ました。三半規管の破壊のなか、意識を傾注しようと目をつむった。回転の感覚と耳に障る風音だけが、男のすべてに成り果てた。

(……、……)(……、……)

――これは、声だ。誰かの声だ。男は思った。それも近かった。だが明瞭でなく、聞き取る事は難しかった。回転は続いていた。男は必死になった。この状況を打開する寄る辺に、男には思えていた。男の希求に答えるように、声は気配を増した。それは少女のものらしい、高く幼い声だった。

(……た、………すけ、……おこ……、……しょう。)

 ああ、と男は風のなか嘆息を漏らした。少しだが明白に、意味が聞き取れそうな感触に男は安堵を覚え始めた。誰ですか。あなたは私を助けてくれるのですか。男の口は閉じられ、それは頭蓋のなかにのみ発散される言葉ではあったが、声の主は、男のすべてを受け入れているような抱擁力をもってして、優しく言葉を紡いだ。風音にも負けじと明確に男には聞こえた。

(……助け、て、あげま、しょう。あなたを、とめて、あげましょう。)

――温かい、……温かい声だ! はい、と男は助力を求めた。口内で土と唾液が入り混じり、濃い自然の味ともいうべき匂いが、男の肺を強く満たしていった。少女は、笑った。哄笑に近い笑い声だった。男は震撼したが、次の言葉を待つしか、他に術を持たなかった。

(なら、私と、一つの約束をしてください。それが呑めるのなら、お救いいたしましょう。)

 男は心中で頷いた。少女の声は続いた。

(私があなたにお願いしたい事、――私の存在を、あなたに消してほしいの。消え失せろ、と私に命令してほしいの。それが叶えられるのであれば、あなたを再び正常に戻してあげられる。お願い、できますか?)

――自分を、消してほしい? 命令しろだって? 途端に、吐き気がこみ上げた。混乱する脳髄の渦のなかで考えるが、男にとって少女の願望は難解であり、それ故、男は理解もなく首肯した。男が胸のなかで命令すると、少女は喜んだように嬌声をあげ、その大音声が、男の鼓膜を弄した。

(……ありがとう。嬉しいわ。これで――)

 急激に、回転が緩やかになるのを男は感じた。同時に体から意識が離脱していく感覚に襲われ、男は少女の言葉を全て聞き取る事ができなかった。そして男の眼前は、黒く塗りつぶされていった。

(うふふふ。――これで、生まれなくて済むのね。大事なあなたの命令は、私にとって絶対だものね。うふふ。)

――気が付けば、男は最後の記憶の風景にいた。山の中腹だった。いくぶん暗さを増し、不気味な雰囲気を抱え始めた山中に男は五体満足で戻っていた。鳥の鳴き声は減じ、よくわからぬ獣の咆哮が遠くに聞こえ、男は寝起きのような茫洋さをもった頭のまま、ゆっくりと下山を始めた。少女の気配は消え、男には回転の感覚すら、もはや残されてはいなかった。――男はその後の人生で伴侶を見つけ、睦まじく暮らしたが、待望していた子供を授かる事はなかった。ご夫婦どちらにも異常はないのですが、と医者が首を傾げる、異様だった。


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このストーリーに関するコメント

14/06/17 かめかめ

なんで生まれたくなかったんですかね〜
産まれていたらの仮定の世界が惨憺たるものだったんでしょうかね〜

14/06/19 クナリ

とても異様な(異様さが突然すぎて、どこかユーモラスですらあるほどの!)冒頭から引き込まれて読みました。
こうした構成の妙がお上手だなといつも思います。
彼女は生まれる前に、この世界の何をわかっていたのでしょうか…。

14/06/20 タック

かめかめさん、コメントありがとうございます。

彼女が生まれたくなかった理由……。ご想像にお任せします、といいますか、自分自身もあまりよく考えていなかったりします。

まあ、お読みいただいた方々それぞれに思っていただければな……と、そんな感じでした。(想像の余地にお任せ、という一種の無責任です)

ご一読、ありがとうございました。

14/06/21 タック

クナリさん、コメントありがとうございます。

本当に過分なお言葉をいただき、感激しっぱなしです。勢いに任せて書いたモノではあったのですが、それが良い方向に向いていたのであれば非常に幸いです。

構成も、文章も、読み直して嫌になる下手さではありますが(当然ではありますが)クナリさんのお言葉で、再び頑張ろうと思うことができました。ご一読、ありがとうございました。

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