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寒竹泉美さん

京都在住の小説家です。「月野さんのギター」(講談社)発売中です。 という自己紹介にも飽きたので、2冊目、早く出したいです。がんばります。

性別 女性
将来の夢 お金の心配をせずに暮らすこと。
座右の銘

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旅のあと

12/06/05 コンテスト(テーマ):第七回【 結婚 】 コメント:5件 寒竹泉美 閲覧数:2213

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 彼女は二週間の旅を終えて帰ってきたところだ。いつも仕事で忙しい恋人(現在は夫だ)とずっと一緒に過ごすなんて初めてのことだった。二十四時間×十四日。とても長い贅沢な時間だったような気もするし、泡のように儚く短い時間だったようにも思えた。

 彼女は、旅行の一日目に、「また旅がしたいね」なんてことを口走って彼に笑われる。
「まだ旅は始まったばかりだよ?」

 彼は朝早く起きて会社に出かけていった。でも、彼女にはもう一日休みがあった。イラストレーターである彼女は、いつ仕事を始めようと自分の裁量次第なのだが、用心のために関係者たちに帰国する日を一日ずらして申告していた。きっと仕事部屋には、ファックスが届き、ポストには郵便物が溢れかえっているだろう。パソコンをインターネットに繋げば、催促のメールが待ってましたとばかりに押し寄せてくるだろう。携帯電話の電源を入れると、帰国日を勘違いしたせっかちな編集者がメロディーを鳴らし続けるだろう。

 でも、彼女は仕事部屋に近づかないし、パソコンも携帯も触らない。彼女の休暇は明日までで、彼女はまだここに帰ってきていない。

 彼女は今、自分の家にいながらにして何者でもなくなっていた。仕事仲間も友人も親からも、そして会社に行った夫からも切り離されていた。仕事も肩書きも消えた。自分の名前すらあやうく忘れそうだった。感覚と欲望だけが起点になって、知らない土地をさまよう浮遊感。いわば、まだ旅の続きだ。

 これとよく似た感覚を知っていると思ったら、それは絵を描くときの気持だった。0から作ること。無から産まれた小さな世界を歩き回りながら過去も未来も篭めて広げていくのが絵を描くということなのだ。世界の広がり方は旅の軌跡に似ている。出来あがった絵を眺めるのは旅の写真を見返すように心が躍る。

 旅の途中、彼女は一度も何も描かなかった。スケッチをしようとも思わなかった。描くこと。描く。描くことはわたしにとって何だろう、彼女は首をかしげる。旅立つ前は毎日絵のことばかり考えて生きてきた。でも、旅の間、わたしは何者でもなくなった。わたしはもう一度、日常を選びなおすことができる。気が付けばまた絵筆を握っている。


 具を切り過ぎて、鍋は溢れ返っていた。最後に入れようとしていた白菜を半分に減らす。もっと大きな鍋を買わなくては、と彼女は思う。大きな鍋で、たくさんの具を煮込まなくては。それももちろん一つ一つ吟味したそれぞれの調和とアクセントを考えた具を。切り方も。大きさも。煮こみ具合も。それぞれがベストで全体もベストで。煮込んで。想像したよりも深い味が引き出せるだろうか。

 わたしがどんな場所でどんな暮らしを営んでいたとしても、こうして自分が食べるための、誰かに食べさせるための料理を作るだろう、という確信が彼女の胸の内をよぎる。固いかぼちゃを切るために包丁の背に左手を添えると、かちんと金属音がした。左手の薬指に銀の輪をはめて料理をするのがこれが初めてだ。力を込める。かぼちゃが真っ二つに割れて鮮やかな黄色の肌を見せた。


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このストーリーに関するコメント

12/06/08 智宇純子

包丁に結婚指輪があたる。素敵です。琴線に触れました。京都のコラムを拝読させていただいていたので、京都がテーマの時にいらっしゃらなかったのが残念です。←勝手なファンの思い(笑)

12/06/09 寒竹泉美

>ポリさん
またしても嬉しいコメントありがとうございます!そうですよね、せっかく「京都」がお題で出番だ!と思ってたのに、ばたばたしていたら締切終わってました(笑)

12/06/10 佐川恭一

初めまして!講談社birthに応募していた時から
お名前を拝見しておりました。
企画がなくなっちゃって残念です。

ここでは寒竹さんの小説に対する思いを
主人公の絵に対する思いとして、表現されてるのでしょうか。
最後の料理の部分もそうだと思いますが、
作家志望者として共感できる部分が多かったです。

私も京都在住ですが、時空モノガタリを知った二日前ぐらいに
「京都」の締切が終わってて残念でした(笑)

12/06/13 寒竹泉美

>おおくぼゆういちさん
読者がどんくさいなんてことは決してないです。分かりにくかったのなら、わたしの推敲不足です。感想ありがとうございます!

>佐川恭一さん
おお、Birthつながり!お名前でぐぐったら一次通過されてましたね。編集者さんたちの評価は割れていますが、逆に読んでみたいなあと思いました。企画なくなって、わたしも残念です。京都在住なら、またどこかでお会いしそうですね。
そう、ご指摘通り、小説に対する思いです。掌編にしてはとっちらかったまますぎた…と反省していますが…。コメント嬉しかったです。

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