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アルペンさん

クジラとか好きよ。

性別 男性
将来の夢 たまねぎ
座右の銘 地面のない所で駆け出そうとするような

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翡翠の雨滴

12/05/13 コンテスト(テーマ):第四回 時空モノガタリ文学賞【 傘 】 コメント:0件 アルペン 閲覧数:1488

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 終着駅で目を覚まし、ホームに出た時には既に雨だった。夕刻の曇り空は低くて暗い。ぱちぱちと雨滴を弾く音が耳を触る。
 階段を下りて、改札前の売店で傘を買った。五百円のビニール傘である。残された徒歩の距離を考えると、心もとない。細い取っ手と鞄を握って、人の少ない改札を抜けて、出口から空を覗く。雲塊が圧し固められたようなごつごつした空だ。そこから大小の滴が地面めがけて落ちて来る。
 自分は傘をさした。足元のタイルは水浸しで、自分は忌々しげにそれを蹴散らしながら進んだ。裾も、皮靴も、濡れてしまって構わない。許容ではなく自暴自棄だった。それでも仕事の書類が入ったカバンを大切そうに抱き締めているのがどうにも滑稽で、それを意識し始めると、哀れな気持ちになる。
 その鞄に一体何が入っているだろう。
 終わらなかった雑務、突き返された企画、真っ白な自分の未来も、今はそれらの圧力でめちゃくちゃだ。小さなカバンの中に折りたたまれたのは過剰な自意識と責任と、必死とは言えない程度の努力と、それから本気になれない自覚。
 迷い。戸惑い。
 それを雨の下で抱えている。手放せないでいる。猫背になりながら、それを逃さない事だけに必死である。理由も判らないまま。
 信号が移り変わった。青緑色がぼやけながら煌々と照る。心が焦った。煽られている。立ち止まっている場合ではない。そう、例え進む気がなくとも、道は安全な内に渡りなさいと、親切に教えてくれる。自分は手を引かれるまま進む。進んでいる、進んできた。水没した縞模様を、躓きそうになりながら抜けた。
 駅前を離れて、踏切を超える。大通りを避けて小道に入ると、起伏ばかりの住宅街である。上り坂も下り坂も、目の前にすると気が萎える。どうしてこんな所に街を建ててしまったのだろう。一歩一歩、否応なく進まなければならないらしい。
 カーテンを透かして家の灯が落ちている。それを避けるように右往左往しながら、もたもたと坂を登る。
 本当ならこの時間、街には夕陽が明々と降って、毎日、何だか救われたような気持ちになるのだが、今日に限ってはそれも望めそうにない。坂の頂きで天は額に触れるほど低く、自分の背を丸くさせる。見降ろした視界では街の屋根が薄墨の様に滲んでいる。形のない街。生活。自分の生活。それはこんなにも頼りないものだったろうか。脚の力が抜けるような気がした。そのまま坂を転がり落ちて、水溜りの中で息を辞めるような、そんな幻想を見た。
 ビニール傘は軽かった。かろうじて自分と雨とを隔てている。そうして自分は歩く。僅かな存在を手繰って、この道を行く理由を見つけて来た。そんな危なげなものに寄りかかって、精神は人生を受け容れて来た。
 傘を下げる気はなかった。雨に濡れたくなかった。例えこんなみじめな気持ちだったとしても、雨に濡れていないと言う一事を以て、僕の精神はかろうじて脚を折らずにいられるのだ。ここで雨に濡れてしまっては、もう、何もない。
 僕は諦めて歩き出した。坂を下ったら、また坂がある。けれど歩き続ければ暖かい屋根の下に帰れる。僕はこの道のりを保証してきたのだから。
 再び坂をのぼりはじめた。少しずつ空が近くなった。踏切の遠鳴りが聞こえた。カンカンカンと、歪んで僕の背を押した。
 頂きは先程より高くなかった。僕は足元を見つめながら、そこに至った。
 濡れたつま先に、オレンジの暖かさが差した。濡れたアスファルトが無数の光を散らしていた。僕は目を瞬いて、顔を上げた。
 僅かの間に雲が裂けていた。そしてそこから、目もくらむような朱い、朱い、朱い太陽が覗いていた。
 鮮やかな一面の赤色が、脳裏に無限に広がって行く。遠く鐘の音は鳴り響いていた。僕は立ち止った。時間さえ停まっていた。明々と照らされた街は影の中に沈まんとしながら鎮静としている。車の行き来は脈動の様に流れ、全てが光をまとっていた。
 その時にわかに突風が吹いた。貧弱なビニール傘は手を離れ、空に舞い上がった。それ追った手が鞄を取り落とす。書類が飛び出して、水溜りに浸かった。野ざらしの身体に霧のような小雨が降り注ぐ。全身が静かに濡れて行く。
 けれど僕は幸せな気持ちでいた。胸が一杯に満たされたような気持ちでいた。
 なぜだろう。ただただ奇妙な幸福感に包まれて、僕は停止する。隣家の庭木の薄い葉が、陽に透けながら光っている。その碧が揺れても、僕は立ち尽くす。
 ビニール傘はどこに飛んだだろう。その存在はあまりに希薄で、もう空に溶けてしまった。
 僕はどこに居るだろう。ふと振り返った。
 光の中には、黒々と僕の影が伸びている。
 それを見て、僕は心からの安堵を満喫した。
 


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