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草愛やし美さん

時空文学コンテスト開催100回、おめでとうございます。思えば、初めて私が、こちらに投稿したのは2012年5月のこと、もう4年近く経ったのですね。時空モノガタリさまが、創作の場を与えてくださったお陰で楽しい時間を過ごすことができました。感謝の気持ちでいっぱいです。 また、拙い私の作品を読んでくださった方々に感謝しております。 やし美というのは本名です、母がつけてくれた名前、生まれた時にラジオから流れていた、島崎藤村作詞の「椰子の実」にちなんで……大好きな名前です。ツイッター:草藍やし美、https://twitter.com/cocosouai 

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昭和日記 1964年東京オリンピック その2

13/09/09 コンテスト(テーマ):第十六回 【 自由投稿スペース 】 コメント:5件 草愛やし美 閲覧数:2163

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  祝、2020年東京オリンピック再びあの感動を!!

 昭和日記東京オリンピックのその2です。


  ☆      ★      ☆



 1964年10月10日(土曜)開会式は壮大な始まりの時を迎えていた。前日には台風が接近していたというがこの日は抜けたような青空の秋晴れだった。国立陸上競技場に出場選手が入ってきた。行進する選手の前に掲げられた旗はギリシャのものだ。選手入場がオリンピック発祥の地であるギリシャから始まることも、開催国が最後だということも私はその時まで知らなかった。

 ――式典は厳粛に次々と進んでいく。ブランデージ会長が昭和天皇に開会宣言を願い、天皇が、「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します。」と開会を宣言し、ファンファーレが鳴り響き、オリンピック旗が入場した。場内一周後、オリンピック賛歌にあわせてオリンピック旗が織田ポールに掲揚された。いよいよクライマックスの聖火入場だ。独特なメロディーのファンファーレが鳴り響く。聖火の最終ランナーは坂井義則。彼が最終聖火ランナーとなった理由は広島への原爆投下の日の1945年8月6日に広島県三次市で生まれ、陸上選手であり、その平和の象徴として選ばれた。坂井はトラックから階段を上り、聖火台に点火した――

 点灯された聖火の炎が赤々と揺らめいている、この場面は感動の瞬間だった。やはりカラーだと実感が湧く。選手宣言の後、鳩が飛び立つ空にブルーインパルスが五色のオリンピックマークに輪を描く。青空に色彩が非常に生えていた。
 
 見ている途中で何だか違和感を覚えた私はお便所に行った。三姉妹の末っ子の私は女性の生理についてはよくわかっていた。その時、自分にもその日がやってきたことを認めた。その印を見つめた時、とっても嫌だった。なぜなんだろう? 女性ってこうならなあかんの? それは、自分には受け入れ難い色だった。でもそこで躊躇していられない。ちゃんと始末しなくては……。
「お母ちゃん、あんなぁ……」
 もごもご口ごもって伝える。母は厨房で仕事をしていたが、すぐにやって来て必要なものを手渡してくれた。姉達がやってきて口々に囃したてる。
「いや〜Y美いうたら、オリンピック開会式で早くも日の丸揚げたんやてなぁ。ハハハハあんた凄いやん」
「お祝いせなあかんのちゃうかY美ちゃん」
 お姉ちゃん、もうえぇって、放っておいてとは言えなかった。恥ずかしかった。なぜだか恥ずかしくて仕方なかった。目出度いなんてちっとも思わなかった。母はお赤飯買ってこないとあかんなと話している。
「お母ちゃん、うちお赤飯なんかいらん。買わんでえぇって」
 そう訴えたが、お赤飯好きな父がいるので母は近所の和菓子屋さんで少しだけお赤飯を買ってきてくれた。なぜ、お祝いになるのか、赤飯なのかよくわからなかった。顔が真っ赤になっていただろう。どうしてなのかわからないが女の体になるということは苦痛だった。たぶん子供っぽかった私はいつまでも子供のままでいたかったのだろう。それでも中学二年の私は姉よりもずっと初潮が遅かったのだけど……。クラスの友達もほとんどの人がもうすでにそれを迎えていた。早生まれの私は遅いほうだったのだ。だけど一生来なくて良かったのにとその時私は思っていた。

 開会式が終り様々なオリンピック競技が開催されていった。私たちは毎日、日本の奮闘振りに興奮した。よく記憶しているものに、重量挙げがある。三宅義信が金メダルを取るまで固唾を飲んでテレビ画像を見守っていた。重そうなバーベルを挙げるという競技は手に汗握るものだった。
「それ! 頑張れ三宅」
 なんて、みんな自分がバーベルを挙げているつもりで歯を食いしばって踏ん張った。
 お家芸の柔道は必死で応援しているというのにオランダのヘーシンクにメダルを持っていかれた。その時まで私は柔道が海外でされているスポーツだということを認識していなかった。
「強いなぁ、ヘーシンク。背も高いし、日本人のずんぐりむっくりの体系とは明らかに違うなぁ。そやけど強い。それに紳士的やな。やっぱ柔らの心学んでいるんやろなぁ。所作が違う」
 ――なんてかってな解説者になった方が多かったのではないだろうか。 私にとっての、極めつけは女子バレーボールだった。夢中で応援した。
「葛西そこや、宮本頑張れ! 魔女やでぇ、東洋の魔女や。強いわなぁ〜」
 意味もよくわかっていないのに、今日初めて知った選手の名前を呼び応援する。日本人の代表で応援しているような顔で。日紡貝塚を率いる大松監督もびっくりだっただろう。その魔女達はついにソ連を破り金メダルを獲得したのだ。その瞬間たぶん日本中に歓声が飛び交ったことだと私は確信している。
 体操も素晴らしかった。日本はもちろんだが外国選手も印象に残っている。男子は遠藤選手。女子はチェコのチャスラフスカ。こんなややこしぃ名前なのに競技が終わる頃はすっかり馴染みの名前になっていた。
 水泳は日本の得意競技だと信じていたが違っていた。あの前畑やふじやまの飛び魚の古橋が活躍したことを知っている国民は絶対水泳は金だと思っていた。だが海外選手が強かった。
 「第四のコース、ショランダー君」、このアナウンスを私は何度聞いたことだろう。アメリカのショランダーの泳ぎはずば抜けて速かった。世界新記録を更新して4つも金メダルを取ったのは敵ながら天晴れだと思う。

 最終日、男子マラソンが実施された。この東京オリンピックで記憶に残る三人のランナー達がいた。それぞれの人生は複雑な運命の糸に操られたものだった。 

 劇的なヒーローとなったのはエチオピアのアベベだった。一斉に走り出したランナー達の中で抜きんでたアベベを見た時、視聴者は驚いた、なんと彼は裸足だったのだ。裸足の鉄人アベべは、エチオピアの国の栄光と皇帝のために……走ったのだろう。貧しい農家に生まれた彼は栄光のテープを切る、前回のローマオリンピックに続くマラソン史上初の金メダル二連覇を成し遂げたのだった。帰国した彼はエチオピアで英雄となった。だが、後に伝わったニュースに日本人達は驚愕する。アベベが母国で交通事故にあい下半身不随になったというニュースに……。
「あんなに速かったのに、もう走れないんやアベベ」
「裸足で凄かったのになぁ、走るどころか車椅子って……」
 東京オリンピック最終日のヒーローを襲った悲劇に私は涙した。私の脳裏にはテープを切ったあのシーンが鮮やかに蘇ってくる。貧しくて幼い時から裸足で駆け回っていたというエピソードなど、日本でもしっかりと伝えられていたから、フアンも多かったと思う。人懐っこい笑顔が印象的だった。障害者になった後も、彼は生涯スポーツに関わり続け、身障者のスポーツ競技に出場していたそうだ、素晴らしい人だと思う。

 日本人ランナーは円谷選手と君原選手の二人が期待された。二人の肩に、メダル獲得という、国民の期待が重くのしかかる。自衛隊員であった円谷はその重荷に静かに耐えつづけた。日本の勝利という逃げえぬ重荷を背負ったまま、二人はスタートラインに立つ。この時、日本の作戦は、円谷がとにかく飛ばし、君原を引っ張ること。いわば円谷は君原のための捨て駒だった。結果は円谷はそのまま飛ばし3位に、体調を崩した君原は8位に終わった。
 
 東京オリンピックのクライマックスに日の丸を掲げた円谷は一躍英雄となり、君原は心に深手を負って、マラソンシューズを脱いだ。
 4年後のメキシコオリンピックにメダルの期待がのしかかっていき『今度こそ金メダルを!』という期待の中、重圧に押しつぶされた円谷幸吉は自らの命を絶つという道を選んでしまった。『幸吉はもうすっかり疲れきってしまって走れません。』そのひと言を残して……。
 シューズを脱いで引退を決意した君原健二は、コーチの説得により、再び陸上のトラックに舞い戻り、長距離ランナーとしての自分を取り戻しす。円谷のいないメキシコオリンピック男子マラソンに、『円谷のために走る』と心に唱え、オリンピック3連覇を目指すライバル、アベベを見据えて走った……。不敗のアベベがこの時、突然、途中で棄権したのだ。東京オリンピックで敗地にまみれた君原がここでは銀メダルを獲得したのである。
 先のことは全くわからないものだけれど、運命に翻弄された三人を思うとき、複雑な気持ちになる。諦めては駄目。人生って、やってみなければわからないもの。色んな言葉で決め付けるにはあまりにも劇的な三人の生き様だ。オリンピックには、魔物が住むという。それは、違った意味で使われているのであろうが、私にはアベベや円谷が魔物に魅入られたような気がして仕方がない。

 閉会式は各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場する感動的なものだった。オリンピック憲章に従い、オリンピック発祥の地ギリシャ・今回の開催国日本・次回開催国のメキシコの国旗が掲揚され、アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会会長の挨拶で、閉会の宣言をし、15日間にわたって掲揚されていた五輪旗が降ろされ、聖火が納火された。そして、場内が暗くなると電光掲示板に、「SAYONARA(さよなら)」「MEET AGAIN IN MEXICO(メキシコでまたお会いしましょう) 1968」と表示され、蛍の光の大合唱で東京オリンピックの全日程が終了した。
 
 終わってみれば日本は金メダル16個、銀5個、銅8個の合計29個のメダル獲得数だった。メダル獲得数の1位はアメリカ、2位はソビエト連邦。今ではそのソ連もなくなっていることを思うと長い歴史の時間の経過を感じる。


   終わり


 長い作品をお読みくださってありがとうございました。


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このストーリーに関するコメント

13/09/10 鮎風 遊

脳に刻まれたいろいろなシーンが蘇ってきました。
バレーも重量挙げも、マラソンも。

そして閉幕し、市川崑の映画、東京オリンピックを観に行かされました。
その評は、金網に張り付いて見ているシーンが長すぎるというものでした。
そして確かに長いと思いました。
記録映画であるべきものが、なぜ? と高校生ながら疑問でした。

だけど時を超え、今なら市川崑の気持ちがわかります。
彼は記録映画ではなく、東京オリンピック物語を撮りたかったのだと。

当時、東京オリンピックにシラケてた高校生たち。
それでもずっと、その成長に影響があったことだけは確かです。

読ませてもらい、まことにありがとうございました。

13/09/10 泡沫恋歌

草藍さん、拝読しました。

当時のことを、よく覚えていますね。

私はあまり記憶がないけど、三宅選手や「東洋の魔女」とかいうのは
覚えています。

これは「昭和の語り部」としても、重要な作品だと思いました。

ありがとうございます。

13/09/11 そらの珊瑚

草藍さん、拝読しました。

私いつもオリンピックを見て思うのですが、もちろん金メダルを日本がとったら嬉しいですが、負けたとしてもすごいレベルの運動能力を見て感動しちゃうのです。
東京オリンピック、賛否両論あるみたいですが、決まったことなので楽しみに応援したいと思います!

13/09/12 toruchann

愛さんへ

いよいよ 東京オリンビック2020
1964年 私は高3(受験地獄まっただなか)でした

いろいろな 会場チケットが 学校にきましたが
それぞれ10名くらい・・・・・・・・・・・・・

私が引き当てたのは 「棒高跳び」の決勝
が・・・・ガビーン 

後で知ったのですが 
たった二人で 数十時間戦ったそうな

が・・・時間に限りがあり 途中で退出
ですので 結末は 後に知る事となり

今となっては 心残りの1964オリンピックですかね
「東洋の魔女」=大松監督  か〜

パワハラ とか セクハラ とかは 二の次
だったかもね〜

とにかく 「金メダル」
それによって 今日の日本があるのも 事実

東京オリンピックの
プラス面 と マイナス面 いろいろあると 思いますが


これ読んで 
東京オリンピック2020 を 応援したくなりました 


感謝

13/09/13 ドーナツ

東京オリンピックが決まった今月にふさわしいお話ですね。

最初の東京オリンピックはよく覚えていませんが、テレビでところどころ見た記憶が、、小学校だったもので。

この頃は オリンピックにも政治が絡んできて本来の目的あらはなれちゃったりもしてますが、最初のオリンピック思い出して心新たに頑張ってほしいです。当時の選手は国のためにという思いが強かったような。今は自分の記録とかメダル獲得のためだけに必死で ドーピング検査ひっかかったり。
頑張ることはすばらしいことなので、スポーツマン精神忘れずにいてほしいです。

すごく懐かしいお話、ありがとう。

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