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ポテトチップスさん

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ランナー

13/04/27 コンテスト(テーマ):第三十回 時空モノガタリ文学賞【新人】 コメント:1件 ポテトチップス 閲覧数:1984

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ポツポツと雨が降り出してきたようだ。
どこからか子供の泣き声も聞こえてくる。
先ほどから激しい睡魔が襲ってきて意識はしだいに深い深い闇の中に沈もうとしている。
なんとか目を開けて暗い部屋の中に目を向けると、テーブルの上に睡眠薬の入っていたビンと少し水が残っているコップが置いてある。
川岸昭一は手を伸ばしてコップに入っている水を飲もうとしたが、途中で手をだらりとフローリングの床に力なく落としまぶたをゆっくりと閉じた。
とても心地が良い気分だった。まるで天に昇っていくように体が軽くなっていく。
もう目をあける力は残されていないが、意識だけはまだ若干あった。時期にこの薄い意識も無くなって天に魂が昇ることになるだろうが、なぜだかまぶたの裏に競技場のトラックが鮮明に現れ始め、風が頬を撫でた。
後ろから陸上スパイクシューズの足音がこちらに近づいてくる。
川岸は荒くなる呼吸と激しく鼓動する心臓で、近づいてくる何者かに脅えた。
足音が真後ろで止まり、右肩を軽く2度叩かれた。
「監督が俺を選んでくれたよ」
川岸は前を向いたまま唇を噛み締め、必死に涙を堪えた。

大学を卒業すると推薦ですぐに都内の製薬会社に入社した。
この製薬会社は陸上競技の社会人実業団として名の高い企業で、この年、川岸と同じく推薦で入社したのは竹下友則と坂上明の3人だった。
ここで指導する栗林監督は幾多の名選手を育ててきた名監督で、選手達からは影で鬼監督とも呼ばれるほどの厳しい監督でもあった。
川岸ら3人は練習初日、栗林監督に呼ばれた。
「いいかお前ら、俺は実力のない選手はどんどん切り捨てていく。2年間お前ら新人3人をスパルタで指導して、国際大会に勝てる選手を一人だけ残すつもりだ。つまり何を言いたいかと言うと、お前ら3人のうちの実力のない2人には2年後に辞めてもらう。もちろん、実力がないと自覚したら自分から辞めてくれても構わない。以上だ」
この日からハードな練習が始まった。
毎日400メートルトラックをひたすら走らされながら技術的な指導を受けた。
8ヵ月後に坂上明が実力がないという理由から自主退部していった。

入団して2回目の春がやってきた。
競技トラックで準備体操をしていると、栗林監督が竹下友則を遠くからメガホンで呼んだ。
走って監督の元に向かう竹下の後ろ姿を見つめながら、言い知れぬ不安に駆られた。
しばらくして、後ろから陸上スパイクシューズの足音が近づいてきた。
軽く弾むような足音を耳で聞きながら、川岸はカラカラに乾いた口の中の唾を搾り出すようにして飲み込んだ。
肩が叩かれた。
「監督が俺を選んでくれたよ」
前を向いたまま「そう」。川岸は涙を堪えながら言った。
「監督がお前に退部するようにって」
「そう……」

雨が強く降り始めだしたのか、窓に雨がぶつかる音が朦朧とする意識でとらえた。
猫の唸り声も聞こえてくる。
もう先ほどの競技場のトラックでの光景はまぶたの裏から消えていた。
早く天に昇りたかった。
なのに意識が完全に途絶えない。
『早く死にたい、早く死にたい』と念じていると、意識はしだいに元に戻ろうとし始め、天に昇れるほどに軽くなり始めていた体に重さを感じ始めてきた。
激しい睡魔から軽い睡魔に変わり、どのくらい寝たのだろうか、携帯電話の着信音で目が覚めた。
太陽の光が窓から部屋に差し、古新聞回収車のスピーカーの音が遠くからこちらに近づいて来ているようだった。
川岸は、俺は生きているのか? と一瞬思って部屋を見回した。
テーブルの上には睡眠薬の入っていたビンと、飲みかけの水がコップに残っていた。
携帯電話の着信音が途絶え、履歴をみるとアルバイト先の飲食店からだった。
生きていることに失望感を感じた。
腹が減った。喉が渇いた。トイレに行きたかった。
フローリングから立ち上がると眩暈を感じて、壁に寄りかかった。その姿勢のまま視線を全身が映る鏡に向けると、よく肥えた男が映っていた。
実業団を退部してから会社を辞めて、もう10年が経とうとしていた。
あの頃のランナーの面影は、鏡に映る男にはまったく見られなかった。
川岸は鏡に映る男に「死ねなかったな……」と呟き、笑ってみた。
鏡の中の二重顎の男が、悲しそうに笑っていた。
随分俺も変わっちまったなと川岸は思った。


おわり


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このストーリーに関するコメント

13/05/13 鹿児川 晴太朗

拝読いたしました。
社会人実業団の人間の挫折、というのは目新しい題材だと思いました。
転落した者の悲壮感、末路もよく描けていると思います。
人称視点が少し曖昧なので、そこを上手くやるともっと見栄えがよくなるかな、と思いました。

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