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- 伐妖姫 ばつようひめ 其の壱
こうさん
江戸川乱歩先生とレイ・ブラッドベリに触発された、不思議な世界を旅する冒険活劇ストーリー創りが身上です。
性別 | |
---|---|
将来の夢 | 電車内で読んでにやにや笑いされるような 小さな物語本の作者になりたいです。 |
座右の銘 | とりあえず 突きあたるまで 進みましょう! |
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樹林は畏怖い。
地図上はどれほど矮小な土地でも、人間ひとりの体積に比べれば広大だ。粗末な雑木林の山とあなどっていたりすると、迷って一箇所に留まれば終局には落命するのだから。
迷ったかと思えばその時に、背後ろをふりむいてはいけない。絵画に喩えれば、木の一本ずつの区別など、脳で描けばみなおなじものにすぎないからだ。
わたしは唸った。森林に道案内を架けるボランティアに来て、自分が迷ってしまっていては笑い話だ。
うしろで木の葉擦が、かさかさと鳴る。誰かが歩いているようだ。自分の足音のゴースト。二重写しの残響だ。証拠に、立ち止まれば消える。また歩き出せばそれもまた聞こえる。だが安心はできない。
何か居るか居ないか。振り返って見なければ確かめようが無いからだ。
何かとは……?
わたしはスニーカーを片足脱いで、自分の手前に置いた。そうすれば、そこが前であることがわかる。
そうしておいて、振り返る。あまりにも静まり返った木々の中、首の腱が機械式のように、ぎぎいっ、ぎぎいっとうなるのが聞こえる。
わたしはゆっくりと開眼し、うしろに拡がる景色を見た。
前後左右が、区別がない。全く同一の、うす緑と茶色の、たそがれた景色。
誰もいない。追跡者などいなかったのだ。わたしは一人。こんな森の中で、方向感覚を失くして立ち往生している女。ふっと安堵のため息を吐く。
靴がなくなった。いましがた脱いで、進行方向に置いたはずのスニーカーが、見当たらない。
わたしは一瞬、自分の猿知恵を嗤った。今見ているのは、おそらく前と思っているが、実は後ろ向きなのだと。だから、靴が消えたように勘違いしたのだ。
たかが靴ひとつ。背中をむけば、そこに…。
靴はない。翳った林の中に、微風が吹き始めた。進むべき方向が、いよいよわからなくなった。
わたしは想像上の追尾者を恐れて振り向いたことを、いまさらながら後悔した。しかもこの先、靴片方ないままの片はだしで、山道を歩かねばならないのだ。
家に帰れるだろうか? あたたかい寝室に。
わたしは急に冷静になった。追尾者がいないのだとすれば、わたしの靴を持っていったのは誰だ。やはり、犬か何かがいて、わたしが音に気をとられている間に咥えていったのか…それか、狐か。
「そうだよ」と、その子供は言った。
気づくと、わたしの目の前に、金色にも見える茶色のブレザーを着た、のど元に赤いボウタイを結んだ男の子が立っていたのである。
「僕が狐さ」と、彼が言う。見ると、わたしがなくして困っているスニーカーの片方を、ひもでつまんで持っている。
「それを返して」と、わたし。
彼はこまっちゃくれた顔…ほんとうに鼻から先がとがって、獣じみていて、狐かもしれない顔で、少し嗤った。
「ぼくの…言うとおりにするならね」
「なに…?」
「だから、命令を聞くなら、靴を返してあげてもいい」
わたしは息を吸った。頭の中で、飛びかかるタイミングを取った。そして彼を捉える―ために身を乗り出した。
ガサッ…と、彼を抱きしめたと思った瞬間、それは無数の枯れ木の葉となって、わたしの腕をすりぬけた。
「僕はここさ」左手の木の、中くらいの高さの枝に、彼は腰掛けていた。薄い緑色のハイソックスをはいた、半ズボンから出た足がぶらぶら…。
「狐?」
「狐だよ」。
わたしは寝ているのだろうか。樹林を歩き続けて、疲れて、立ったままうとうとしているのだろうか。またはそもそも、こんなところには来ていなくて、まだベッドの上なのかもしれない。
ぽーんと小石が飛んできて、ほほに当たった。痛い。子供が投げた、石だった。
「夢じゃないよ。逃げないでね」彼は言う。
わたしはなきそうになった。靴を返して。まるで小さないじめられっこのように駄々した。
「言うことを聞くって、なによ」わたしは詰いた。
狐の子供はふーんと啼いた。
「服を脱いでとか、そういう類じゃないよ」
「あたりまえよ、ばか! 誰が従うかぼけ」
「おっと強気だねえ…。まんざら命じてみたくもなかったが」
「このへんたい、おませっ」
「おませ…笑。243歳の古老に向かってそれは……」
そして、まともな目をして、つぶやくように告げたのだった。
「この道の先に、山頂に、古いお社がある。そこの木には、朽ちて今にも切れそうな注連縄があるから、それを断ち切ってくれたまえ。そうすれば、お前を無事に里まで送り届けてやる」
「しめなわ?」
「それは、人間たちがおれたちのタタリを封じるために、120年前にくくった、結界の注連縄。それがあるために、俺達は自然に作用をなし、この世の断りをほしいままにできる妖力のほとんど使うことができず、弱って、飢えている。それまでは、度々人間界に這入りこみ、権力を握っては戦を起こし、狐の領地を増やしていったものだ。注連縄を張られてからは、下界の領地の全てを失い、この山に閉じ込められている。縄を切るのだ」
「いやだといったら?」
「いのちはない」
狐が言ったとたん、どこからか十文字につる草が伸びてきて、わたしの手首、足首、のどにからみついて、きつく締め上げたのだった。
「二度といわない。いのちはない」
一陣の風とともに、子供の姿の狐は消えた。つる草はほどけ、そして、わたしの目の前に、靴があった。
わたしはどちらに進もうかと迷った。狐の脅しなど夢だったと忘れて、なんとか下山するべきか。ちなみにもう、日が暮れかけていた。それとも、山頂へと続く、小さなろうそくのともし火に従って…それは狐が残していったに違いない。道しるべだ。ずっと奥まで続いている。そこへ行くべきか。
命はない、と、狐は言った。選択の余地はないということか。
わたしは立ち並ぶろうそくの火に導かれて、とぼとぼと山道をあがっていった。
小半時過ぎた頃、あたりはすっかり夜になっていて、進むも戻るも、ろうそくの明かりにすがるしかなかった。
そして見つけた。赤い、小ぶりな鳥居が、前方に幾重にもつらなり、わたしを誘い込むように、小さな火の中に浮かび上がっているのを。
鳥居をくぐっていくと、朽ちたお社が見えた。その手前に、木と、木の間に、古い注連縄はくくられていた。いまにも切れそうな縄の真ん中に、わたしは立っていた。これを切ってしまえば、また、人間の世界に、新たな争いの種がいくつも芽生えるのだ、と思った。こんなに切れそうになったから、あの少年のような狐だけは戒めを解かれたのだろう。
「逆に……?」
わたしはその時、自分の白いハンカチを取り出して、社にかざして願掛けをした。祈願して、聖別し、そして、注連縄に結んだのだ。
おそろしい、のろわれた狐たちの咆哮が、おう、おおーう! と、山林中にこだました。
「この裏切り者が!」
突然、木の上から彼が墜ちてきた。先ほどと同じ服だが、その姿は、もはや老いさらばえた獣だ。
わたしは告げた。
「これでひとまず応急措置ね。あとは、本格的な注連縄の完成を待つばかりね。―わたしをただの森林保護ボランティアだと思った?
最初から、調査のために山に入り、迷った振りをして妖魔の出方を窺っていたのよ。注連縄の調査もかねて。わたしの身分は、名前は、そう……掃狐師そうきし、陽麗華騎李馨ようれいか・きりか。人呼んで「伐妖姫ばつようひめ! …なんてね。お見知りおきを」
「おのれっ」
老いた狐は、もんどり打って社に吸い込まれていった。
そのとたん、わたしの足元の葉の堆積が崩れ、わたしは垂直に落下した。
そして一瞬で、実家の神社の石段上に立っていたのだった。
「おかえり、騎李馨」
「ただいま。父さん」
師匠である父の顔は、厳しいが、おだやかで、わたしを迎え入れてくれていた。