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青海野 灰さん

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祖父の家

13/04/16 コンテスト(テーマ):第二十八回 時空モノガタリ文学賞【 浅草 】 コメント:4件 青海野 灰 閲覧数:1500

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 私の母方の祖父は、浅草の町外れの平屋に住んでいた。
 その家にはお風呂もなく、水洗トイレもなく、古ぼけて黒ずんだ柱と壁のおかげで年中暗い印象を受ける部屋は、職人気質で寡黙な祖父の性格も相まって、子供の頃の私には恐怖心さえ抱かせた。
 ただ、夏なんかは、家から出て少し歩くだけで隅田川の花火が見えてきて、その時だけは無邪気にはしゃいで祖父に飛びついたりもした。夏の夜の蒸し暑い空気と、耳に響く花火の音と、祖父の服に沁みついた煙草の匂いが懐かしい。

 祖父は草履職人をやっていたんだと知人に告げると、「そんな職業まだあるんだ」とよく驚かれた。それが楽しくて、私はある程度親しくなった人には祖父の話をした。お風呂がないから毎日銭湯に行く事や、定期的にホースでトイレの中を吸い込む車が来る事や、草履の材料となる木や藁の心地良い匂いなんかも話した。
 祖父は、私が結婚する前に亡くなった。五年間付き合い夫となってくれた彼にも祖父を紹介したかったけれど、それは叶わなかった。

 ある夏の夜、私は夫と隅田川の花火大会を観ていた。相変わらずのひどい混雑で、満員電車のような人ごみの中で見上げる花火には風情も感じられない。
 ふと昔の事を思い出した私は、彼に耳打ちをすると、その手を取って人ごみの中を抜け出した。夏の暑さで汗ばむ二人の手の中に、彼の指に嵌る結婚指輪の固さを感じ、愛しくなった。
 花火の音を背中に感じながら、浴衣の裾をぱたぱた言わせて駆け、私は彼の手を引きながら浅草の入り組んだ町を進んだ。
 おぼろげな記憶を辿り、道を選んでいくと、小さな川に面した懐かしい通りに着いた。川といっても清流ではなく、家庭排水などが流れ込む普通のどぶ川だ。この川に向かう形で、祖父の家は建っていた。

「で、どこにあるの? そのおじいさんの家」

 彼がいつもの穏やかな声で聞いた。私は彼と手を繋いだまま、息を切らせて立ち尽くした。祖父の家は、どこにもなかった。
 それはそうだ。誰も住む者のいない都心の古びた平屋が、放っておかれるはずがない。思い出の場所にはマンションが建ち、遠くで打ち上がる花火に照らされて様々な色にぼんやりと光っているだけだった。
 分かり切っていた事だった。
 分かり切っていた事なのに、なんだか泣けてきてしまった。

「ごめんね。ここなら見えると思ったんだけど、全然見えないね」

 私が謝ると彼は優しく笑い、親指で私の頬を拭って言った。

「泣く程の事じゃないだろ? 見える所までまた歩けばいいよ」

 この優しい人を、私は愛している。
 頑固でたまに怖いけど、でも基本孫には甘い祖父も、愛していた。
 あの今にも崩れそうな古びた平屋の家も、黒ずんだ柱も、藁の匂いも、祖父のくわえる煙管も、皆で草履をはいて行った銭湯も、夜には泣くほど怖かったトイレも、祖父の袖を掴んで見上げた花火も、全部愛していた。
 それらの愛しいものたちを、ふと目を離している間に、時の流れが飲み込んで、押し流して、果てしない程の遠くに追いやってしまった。あまりにも当たり前の事なのに、なぜだか今はそれが悲しくて、訳も分からず涙が溢れて、私は道路の上にしゃがみ込んでしまった。

「お、おい、どうした。大丈夫か?」

 彼が慌てたように私の横にしゃがみ、背中をさすってくれる。その優しさにまた涙が溢れる。
 とめどない感情に任せて泣きじゃくっていると、頭上でカラカラと窓の開く音がした。

「こらあ!」

 突然の怒声に驚いて、声のした方を見上げると、マンションの五階のベランダで、よぼよぼのお爺さんが右手を振り上げていた。

「ワシの孫娘を泣かすのはどこの男だぁ!」

 見た事もないお爺さんが、しわがれた声でそう叫んだ。
 突然の事に二人で停止していると、その後ろからおばさんが出てきた。

「おじいちゃん何言ってるの。あんたの孫は部屋でテレビ見てるでしょ」

 そう言いながらお爺さんを部屋の中に押し戻した。

「ごめんねぇ。おじいちゃんボケてるから気にしないでね。……大丈夫?」

 おばさんは、道でしゃがみ込む私たちを見て心配してくれた。

「あ、大丈夫です。ありがとうございます」

 彼が少し大きな声で返事をすると、おばさんは「そう」と言って部屋に帰って行った。
 私たちはしばらく呆然とした後、お互いの顔を見合わせると、こらえ切れなくなったように笑いだした。
 彼は立ち上がり、右手を差し出しながら言った。

「今度、おじいさんの写真とか見せてよ」

 私は頷いて、彼の手を取り立ち上がる。
 手を繋いだまま、遠くで上がる花火の音を背景に、私たちは夜の浅草の町をゆっくり歩いた。


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このストーリーに関するコメント

13/04/30 光石七

情景が目に浮かぶようです。
優しくて、ちょっと切なくて、温かいものが心に残りました。

13/05/03 青海野 灰

光石さん
ありがとうございます。
2000字はやはり難しいですね…。大した起伏もメッセージ性もないものになってしまって反省です。

13/05/05 青海野 灰

凪沙薫さん
何だかもったいないお言葉、ありがとうございます。
地名のテーマは難しかったです…
凪沙さんの作品の方が私には勉強になります。

13/05/08 青海野 灰

凪沙薫さん
二回もコメントありがとうございます^^
私なんかよりよっぽど表現が巧みで綺麗ですごい人はもうそこら中にいらっしゃるので(凪沙さんもその一人です!)、
こちらこそ日々劣等感と敗北感と焦燥に苛まれております。……鍛練あるのみですね。
凪沙さんの行き場のない気持ちは、紛れもなく素敵な作品として昇華していますし、
私が海となって受け止めますので、どうか今後とも執筆を続けて下さい。

別の話になっちゃいますが、凪沙さんの以下の言葉に鮮やかな感動と感銘を受けました。
「決して届かない気持ちを伝えるために
 人は足掻き続けなければならないのだと
 思っています。」
それが物書きの永遠の使命なのかもしれませんね。
雑談でスイマセン・・・・

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