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青海野 灰さん

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日常と、最後の手紙

13/04/13 コンテスト(テーマ):第二十九回 時空モノガタリ文学賞【 手紙 】 コメント:9件 青海野 灰 閲覧数:2446

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春の爽やかな朝日の差し込む明るい喫茶店には、似つかわしくない悲しげなジャズピアノが、誰からも忘れ去られたように流れていた。
結婚してからもう数年が経つが、こうして朝食を外でとるというのは、意外にも初めてのことで、二人で微かに驚いて笑ったりもしていた。

カウンター席から眺める外の風景は、慌ただしくもありふれた日常を映し出していて、僕の精神を激しく揺り動かし続けた音のないやりとりも、今朝僕の心に深く入ったヒビも、そんなものはただの長い夢だったんじゃないかという幻想にふと囚われる。
それでもそっと目を閉じて、胸ポケットから皮膚に伝わる感触に心を向けると、それは確かにそこにあって、ほっとしたような、やり切れないような、悲しい諦めにまたゆっくりとまぶたを開ける。これは疑いようもない、現実だ。

いつものように右隣に座る君が、今朝見たという夢の話を楽しそうに喋っている。
君を悲しませてはいけない。一つの傷も付けはしない。だから僕は、日常を装う。
君の口が放つ音の抑揚だけを聞いて相槌を打ち、楽しげな雰囲気だけを感じて笑う。
言葉の意味まで掬い取れない。心はただ、あなたの残した最後の手紙を、そこに書かれた文章を、想い浮かべては何度も反芻するだけだった。
微かな悲しみと共に、叫びたくなるような寂しさと共に、意味も分からずに微笑んでは、味気ないパンを噛み締める。

やりとりのきっかけは、一通の投函誤りの手紙だった。
珍しく妻より早く起きた僕は、郵便受けにあった手紙の送り主をろくに見もせずに封を切り中を読んで、ようやく僕に宛てられたものではない事に気付いて血の気が引いた。開けてしまったことで返送する事も出来ず、かといってこのまま捨てるには心が痛む程の苦しい想いの言葉が、そこには綴られていた。
暫く悩んだが、僕はペンと便箋を探した。誤配送の報告と、読んでしまった事の深謝と、持てる限りの力を使って慰めの言葉を綴り、心の中で謝りながらポストに入れ、顔も知らないその人の幸福を願った。やがて日常の中で忘れかけた頃、ひらりと舞い込む様に返事が届いた。今度は誤配送ではなく、僕宛の。
そこから、奇妙な手紙のやりとりが始まった。

始めはどこかぎこちなかったけれど、あなたは傷を吐き出し、僕も過去の闇をさらけ出し、微かにすれ違いながらも、恐る恐る寄り添うような、優しさを唄い合うような言葉が、二か月ほど取り交わされた。僕は朝の投函が何よりも楽しみになり、いつも早く起きては、妻に見つからないようにその手紙を読み、返事を書いた。
いつの間にか僕は、あなたの傷と悲しみの深さに掴まれ、あなたの計り知れない優しさに酔いしれ、抜け出せなくなっていた。僕の手で、この腕で、あなたを慰めたいだなんて、思うようにさえなってしまっていた。
それが許されるはずもない事は分かっていながら、あなたを求め、手を伸ばし、許されるはずがない事に気付いて、絶望する。あなたが僕の手を取れば、あなたを傷付け今もあなたの心に居座るその男と同じ存在に、僕は成り下がってしまう。
無音のやりとりは心地いいものではなくなった。あなたの綴る言葉から、あなたの手が僅かに僕に向けられている事に心の底で喜び、軋むように痛みながら、僕はこの穏やかな日常を破壊することも厭わないとさえ思うようになり、あなたに、そう伝えもした。

あなたの最後の手紙は、朝日の差し込む郵便受けの中で、静かに眠っていた。そして今は、僕の胸ポケットに。


  さよなら
  どうかお幸せに
  私はあなたを忘れない


最後の一文は、きっと、嘘だ。あなたは僕を忘れる。そうでなくてはならない。あなたは僕を忘れなくては、ならない。
そしてその甘い囁きのような、呪いのような言葉に、僕は永遠にあなたを忘れられなくなる。

それでも僕は、助けられたのかもしれない。
あなたが、世界のどこかで音もなく守ってくれたこの日常を、僕も命がけで守ろう。

「でさ、その人がまた変なこと言うんだよー」

君の楽しそうな笑顔を視界の右端で確認しながら、僕は決して窓の外の景色から目を離さなかった。まるでそこで揺れる葉桜の新緑を愛しむようにしながら。今の僕は、君の方を向けない。
心の中で激しく渦巻く様々な想いが溢れて、抑え切れなくて、零れ出して、僕は器用にも、左目だけで泣いていた。
君は気付いていないだろうか。いや、鋭い君のことだから、気付いていながら、心に不安を抱えながら、楽しい話を続けているのかもしれない。
そんな君の不安を取り払うため、僕は嵐のように荒れ狂う心を抱えて、日常を演じ続ける。

君の話を聞いて笑いながら、琥珀に揺れる冷めたコーヒーを啜ると、ほろ苦さの中にほんの少しだけ、涙の味がした。


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このストーリーに関するコメント

13/04/13 クナリ

感受性の強い主人公が、もどかしく、危なっかしく、胸が詰まるようなお話でした。
深い部分の価値観が共鳴したり、互いの傷を受け入れられたりしてしまうと、自分にとって特別な存在になってしまうというのはよくわかります。
心というのは、難しいものですね。

13/04/13 光石七

妻に内緒の文通とその終わり、手紙の中だけの恋。
切なくてキラキラしたものがお話にちりばめられているように感じました。
日常を演じてる人って、案外多いかもしれませんね。
優しさときれいな涙が伝わってきます。

13/04/13 青海野 灰

>クナリさん
お読み頂きありがとうございます。
ストーリー性よりも心情の方に強力なウェイトを置いたので、感受性が強いと感じられたのかもしれませんね。
心というのは、本当に難しいです。難しくて、泣き出したいくらいです。
でもだからこそ僕たちには言葉があって、こうして小説を書いているのかもしれません。

13/04/13 青海野 灰

>光石七さん
お読み頂きありがとうございます。
キラキラなんてしていないのですよ。優しくもないのですよ。
意思の弱いダメな大人の1シーンでしかありません。
僕はこれを書きながら、黒く青く濁って沈んだ感情しかありませんでした。
ですが光石さんが優しさを感じたのなら、そういう一面もあったのかもしれません。
微かな光を見つけて頂きありがとうございました。

13/04/14 アパさん

主人公の優しさ、日常と手紙に揺れる内面の不安定さ。
読んでいてとても切なくなりました。
人の心は優しすぎると再確認できたような気がします。

13/04/15 青海野 灰

>アパさんさん(…でいいんでしょうか)
お読み頂きありがとうございます。
優しさというよりは、欲望と、孤独への恐れと、何だかんだで踏み込みきれない意思の弱さがもたらした、硝子細工が壊れるような、小さな小さな別れです。
律義にコメント返しをして下さるアパさんさんは、優しいですね。

13/04/17 青海野 灰

>凪沙薫さん
お読み頂きありがとうございます。
そうなのです。優しさも輝きもない、ヒリヒリとした剥き出しの痛みが伝わったようで、良かったです。
ありふれた日常というものが、こんなにもギリギリの所で成り立っているのだという事を、最近頓に思います。
ふと気を抜くとすぐにでも溢れてしまいそうな、コップに水が表面張力でドームを作る程の、心に波々と注がれた、孤独。

先程、凪沙薫さんのプロフィールを拝見いたしましたが、なんて素敵な方なんでしょう!
喫茶店を経営しながら小説を書くなんて、憧れすぎます!
cafe開放区に超あそびに行きたい!でも遠い!;;
コメント欄に相応しくない雑談ですみません…。

13/05/27 草愛やし美

青海野灰さん、拝読しました。
まずは、時空賞おめでとうございます。
2000文字とは思えない、時間の長さを感じ取れる作品ですね。これは、手紙だからこそ成り立ってしまった恋です。
ほんのちょっとしたキューピッドの悪戯(?)のような誤配によって生じた恋への、心の揺れがうまく滲み出ていて、この主人公の気持ちが痛いほど伝わってきます。「あなたが、世界のどこかで音もなく守ってくれたこの日常を、僕も命がけで守ろう。」この文が、私の心に繰り返し響いてきました。

13/05/27 青海野 灰

>草藍さん
ありがとうございます。まさか受賞できるとは思っていなかったので驚きました。
2000文字には苦戦しました…。どうやっても収まらず、地の文の空白を消してなんとか入りきりました。
主人公の気持ちが伝わったようでよかったです。
あたりまえの日常の残酷さや危うさを、この頃特に感じています。鋭い刃の上を歩いているような感覚です。
胸の叫びを押さえこんで、外面は平然と生きている人が、実は多いのかもしれませんね。

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