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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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宇宙のヘルパー活動報告書

13/03/18 コンテスト(テーマ):第四回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1725

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1

 最初の訪問先は、琴座にある新規の依頼者宅だった。
新規ときいて、安楽泰平の表情は曇った。相手がどんなエイリアンかわからないのは、いくら彼のようなベテラン介護士であっても、さすがに不安は隠せなかった。
利用者に関する資料は彼の乗る一人用宇宙船ユニスペの通信装置にすでに送信されていた。それによると、今回の介護依頼者は、人間タイプと書かれている。泰平はほっと吐息をついた。
彼の所属する介護ステーションが抱える要介護者の、さまざまなタイプの多さにつねづね彼は閉口していた。人間タイプに当たるなど、本当に幸運としかいえなかった。前回の利用者などは、多足類型に分類されて、八本ものどれが腕やらあしやら判断不能の、ながい触手がまわりをとりかこむ頭をもったエイリアンで、口も肛門もそのどれかの触手の先についていて、慣れないうちは、食事と排泄行為をうっかりまちがいそうになってあたふたしたものだった。
 人間型エイリアンならまず、そんな愚かなまちがいを犯すこともあるまい。
 ユニスペの推進エンジンをふかす泰平の手に、おもわず力がこもった。
 まあしかし、種々雑多なエイリアンとはいえみな、宇宙シティに暮らす法と平和を守る善良な住人にはちがいなく、ちがうのはその、かれら種族特有の生活形式なのだ。
  ただ、年老い、肉体が弱るとそれに比例して、性格が頑固になるのはどのタイプのエイリアンにとっても共通しており、そのためかれらの多くは、いまから泰平が赴く利用者のように、単独で暮らしていた。だからこそ、われわれヘルパーの活躍の場が生まれるというものだった。シティにはつねに、大勢の介護を必要とする者が、ヘルパーの手がさしのべられるのをまっている。安楽泰平は、介護ヘルパーとしての使命に燃えていた。
 ロクロ―――利用者の名前―――の住まいは、宇宙シティの池とよばれる建物群の只中にぽっかりあいた空間に、他のなにものからも離れて、ぽつんと浮いていた。似たような単独で浮遊する『家』はほかにもいくつもみとめられた。シティのまちの明かりをうけて、どの『家』も星のように光り輝いている。おそらくそれらの『家』にも、社会から離脱し、人々からかえりみられなくなった高齢者たちが不自由な身で生活していることだろう。
「明るく、たのしく、快活に」
 鶴亀介護ステーションのマニュアルの最初にしるされているモットーを口にしながら泰平は、利用者ロクロの在宅する『家』の結合部にユニスペをドッキングさせていた。


 
2

「鶴亀介護ステーションからまいりました、介護ヘルパーの安楽泰平です」
 もちろん事前に来訪の予告は先方につたわっているはずだった。案の定しばらくすると、寝室とおぼしき奥の部屋から、
「どうぞ、はいってください」
 さっそく泰平は奥の部屋のドアまでちかづくと、第一印象が肝心とばかり、口元に穏やかな笑みをうかべた。ドアは自動であいた。
 泰平の目に、寸断された下半身がとびこんできた。それはベッドのそばの椅子の上に、ちょうど人が座るような恰好を保っていた。
「大変だ」
 あわてて彼は、鞄からコスモスホンをとりだすと、驚愕にふるえる指先で、シティ警察を呼びだそうとした。
「あ、まって」
 いきなり聞こえた声に、ぎょっとしたのは泰平のほうだった。こわごわベッドのほうをみると、真っ白なシーツのうえに、さっきの下半身の上が、こちらむいて横たわっていた。
「警察に電話する必要はありませんよ」
「必要ないといっても、胴体がわかれわかれになっているじゃないですか」
「だから、それをくっつけてもらいたんだ」
「それはおやすいご用ですけど………」
 そこではたと泰平は口ごもると、いまいちどあらためて、ふたつにわかれたからだを見比べた。
 するといきなり、上半身についた顔が笑いはじめた。
「きみだけじゃない。最初はみんな、たまげるものさ。われわれのからだは、各部分を自在に分離することができるんだ。腕も足も胴も、それに首だって離脱可能なんだよ。しかしわたしも歳だ、はなすことはできても、くっつけるのがままならない。きみがくるまでのあいだ、なんとか上と下の体を融合させようとして、やっきになっていたところなんだ。すまんが、わたしをそこの椅子まで、移譲させてくれないか」
「わかりました」
 泰平も、ようやく落ち着きをとりもどすと、いわれたとおりベッドの上半身を抱え上げて、それを椅子にすわる下半身のところまでもっていった。
 ほんとうにくっつくのかと、半信半疑だった彼も、下半身の上に据えたとたん、どんな構造になっているのかたちまち、ふたつのからだはぴったり融合しあった。
「ありがとう。これでやっと、人心地がつける。あたらしいヘルパーさんだね。わたしはロクロ、キタハッタエイリアンだ」
「これはどうも失礼しました」
 と泰平は、いたずらにうろたえたいまのじぶんのふるまいを詫びた。
「なにせ資料不足なもので―――」
「むりもない。宇宙シティにはほぼ毎日のように、新顔のエイリアンが集まっている。きみたちのような介護関係者にとってはさぞ、頭の痛いことだろう。シティに集まるエイリアンというやつは、ひとのことはいえんが、およそ奇奇怪怪な体質の持主が多いからな」
「あのう、お体は本当に、どの部分でも、きりはなせられるのですか。あ、いえ、今後の介護の参考にしたいもので」
「いまはきみがいるから、大丈夫だろう。ほら―――」
 いうなり、ロクロの右腕が、肩の付け根からぼとりと落ちた。その腕が肘を中心にしてちょうど尺取虫のようシーツの上をのそのそ移動する光景に、泰平は言葉もなくみまもっていた。
 腕はひとしきり、ベッドのうえをはいまわってから、もとの場所までもどってきた。ロクロはそれを、最初から体についているほうの手でつかんだが、
「いたた。痛風のせいだ。きみ、すまんがこの腕を、肩にまでもちあげてくれんか」
 いわれるままに泰平は、手にするとずしりと重量のあるロクロの片腕をていねいに、肩口までもちあげた。すると腕は、彼の手の中で肘をぴんとのばしたとおもうと、腕の端を肩にドッキングさせた。
「ありがとう」
 ロクロは、なにごともなかったかのように、もとどおりになった腕を曲げ伸ばしした。
「まるで腕にも意志があるようですね」
「そのとおり。腕はじぶんの考えで動くんだ。指だって、そうなんだよ、ほら―――」
 と、こちらはいとも無造作に、左手の中指をもぎるようにしてぬきとって、泰平のまえに置いた。さっきの腕同様中指もまた、関節を起用におりまげながら、ベッドのうえを徘徊しだした。
「わたしを構成する細胞は、いくらでも細かく分裂することができるんだが、いったんばらばらになると、もとどおりにするのが骨でね。とくに歳をとるとひと苦労なんだよ。きみがさっきみたように、上と下にわかれたからだも、なかなかおもうようにもとにもどってくれない」
「わかりました。それでは、これからあなたの介護にはいらせてもらいます。まずなにからやればいいでしょうか」
 老人特有の愚痴と嘆息まじりの話になるまえに、泰平は業務にとりかかることにした。
「おお、それじゃ、トイレをお願いしょうか。じつは、さっきから我慢していたんだが、気がついたら、下半身のやつが、勝手にトイレにいこうとして、おたおたしていたところなんだよ」
「それは大変でしたね」
 こういうときこそ、ヘルパーの出番だった。泰平はベッド下から尿瓶をとりだした。
 

 
3

 出すものを出すと、ほっとしたのかロクロは、泰平が食事づくりにとりかかるころには、うとうとと微睡みはじめた。
 調理といっても、何種類かのパックの封を開けるだけで、室内に充満する空気と触れ合ってしぜんに加熱されたものを、皿にもるだけの話だったが、エイリアンのなかにはオリジナルの食べ物を追加するものもいたので―――彼にはとても口にできそうにない臭い汁とか、うねうねと生きた虫など――念のため泰平はロクロに聞いておこうと思って、調理場からふたたび寝室にもどった。
「ロクロさん―――」
 声かけしながら、ベッドをのぞきこんだ泰平はそこに、なにもかもがばらばらになったロクロをまのあたりにしてその場に慄然としてたちつくした。
 全身のあらゆる関節のところから切り取ったように指、手、肘、腕、胸、腰、腹、生殖器にいたるまで、なにもかもがみな、自分勝手にはいまわっていた。それだけではない。いま頭が、首からごろんとはずれてころがったかとおもうと、眼窩からは目が、ころころところがりでてきた。
この収拾のつかなくなった事態をまえに、泰平は介護者として今できることは何かと懸命に考えた。その彼の耳に、カタカタとなにかの当たるような音がしたかとおもうと、
「朝のヘルパーが、わたしののむ薬を、うっかりわすれたようだ。そうでなきゃ、こんなことになるはずがない」
 みると、枕のそばにころがった顔が、うつむけの不自由な体勢から口を必死にあけてしゃべっているのだった。泰平がいそいでその顔を、両手でおもてにかえしたところ、まるでロクロに喋ることを禁じるかのように、歯がひとりでにはずれて、ホタテガイのように開閉をくりかえしはじめた。
「ああ、口が―――」
狼狽する泰平だったが、頭のような、人体にとって中枢の部分は、さいごまでかろうじて形態を保っているのをみてすかさず大声でたずねた。
「わたしは、なにをすればいいでしょうか」
 歯に逃げられたロクロの顔は、しかし懸命に口をうごかしてなにかを泰平につたえようとやっきになった。
「ひそふぃどぇ、くわきあちゅめるんどあ」
 いまほどじぶんの介護経験のキャリアをありがたいと泰平がおもったことはなかった。
いまのはあきらかに、「いそいで、かきあつめるんだ」と、いったものに相違なかった。
泰平はそれから一時間ばかり、ばらばらになった肉体のブロックを集めつづけた。
最初はとてもこんな、立体ジグソーパズルなどできるものではないと、やらないうちから弱音を吐いていた泰平だった。が、やりはじめてみると、あつめたブロックは、合わせるだけで自然と融合して、おのずと足なら足に、手なら手に、腕なら腕をかたちづくった。そんななかにことなるブロックをむりやりはめこんでも、たちまちそれは、同じ極をちかづけあった磁石のように、ぽんとはじきだされた。
「薬をたのむ」
 歯をもどし、目玉ももとにはめこんでやるとロクロは、ちゃんとした発声で泰平にそういった。
 泰平もこころえて、朝昼夜としわけされた薬入れから、夕方ぶんをとりだして、水とともにロクロにあたえた。
「これさえのんでおけば、いまみたいなことはおこらない」
 薬は即効性があるとみえ、さっきまでのばらばら状態がうそのようにロクロは、余裕ありげにベッドに身を横たえた。どこか気がかりなふうな泰平をみて、
「どうしたのだね」
「いえ、これで全部かなとおもいまして―――」
 すると相手は、まるで他人事のようなのんきな調子で、
「まあいつだって、ひとつやふたつは、かけているもんだ。………ねむくなってきた。バラバラからもとにもどると、いつもこれなんだ」
「かけたものは、どうなるんですか」
 と泰平がたずねたときにはすでに、ロクロはいびきをかきだしていた。
 そこで泰平の担当時間はおわった。
 
 
 
4

 つぎの訪問介護の相手は、これはもうなんどか介護におとずれている、烏口星人のところだった。
やはりおなじシティの、これはロクロのような「池」のなかではなくれっきとしたユニットにひとり、暮らしていた。シテイの建築物はすべてこのユニットがくみあわさって構築されており、はめ込み自由はいうまでもなく、はずしたユニットはまたイオンエンジンによってどこへでも移動できる機能性をもっている。居住者たちは許可さえ得ればいつでも移動可能でそのため、シティの構造が日々、変化していた。
 泰平の乗るユニスペには、訪問先のパスワードがくみこまれていて、ドッキングまでの行程はすべて自動に行われた。
 その烏口星人の名前は、エスサンといった。間違えてはならない。呼ぶ場合は必ず、エスサンのあとに、「さん」の敬称をつけなければならない。前任のヘルパーが、うっかりエスサンと呼んでしまい、憤慨したエスサンは、この宇宙に存在するありとある悪口雑言をヘルパーにあびせかけたあげく、それでもおさまらずにいきなりあたりかまわず墨とよばれているまっくろな嘔吐物をはきかけたのだった。有名な烏口星人の嘔吐物に、密閉されたユニット内ではじめて触れた介護者は、あわてて救急シップに助けを呼んだ。その後数か月のあいだそのヘルパーの嗅覚は、完全に麻痺したままだったという。
 烏口星人の異常なまでのプライドに傷をつけるような行為をおかしたヘルパーに、過ちがあったとして鶴亀サポートはただちにこのヘルパーを解任した。
 とりわけ、口に関することにはかれらは過敏に反応する。
鶴亀サポートのみならず、おそらくすべての介護事業所の介護マニュアルの烏口星人の欄には必ずこの注意書きが明記されているはずだった。したがって介護者は、かれらの口に関係した話題はいっさい避けなければならない。かれらがその、嘴状の口にひとかたならない劣等感をいだいているのには、それなりの理由があった。シティでは、意地汚く、なおかつ狡猾で、ひとの風上にもおけないもののことを、このカラス野郎とさげすむのはだれもが知っている。カラスという生き物がなにで、じっさいに存在するのかもあやふやだが、その決して名誉になるどころか屈辱以外のなにものでもないいきものとおなじ形状の口をもっている事実に、かれら烏口星人が最大の不名誉と屈辱を感じているのだけはたしかだった。
「体調は、いかがですか。エスサンさん」
 相手は、椅子の上から、泰平をみた。
「まあまあだね」
「このあいだより、お顔の色もよさそうですね。食欲のほうは、すすんでいますか」
「わりとね」
「それはなによりです」
 相手の反応から泰平は、エスサンが話をしたがっているのをみてとった。
 社会での役目もおえ、年金生活を送る彼らエイリアンの多くは、このエスサンのような孤独な一人暮らしなのだ。おなじエイリアンでも、たとえばアチャ星人のような社交好きで陽気な種族なら、かれらがただよわせるほのぼのとしたあたたかさを慕って人々が集まってきたりもするが、いたずらにプライドが高くておまけに狷介な烏口星人によりつくものずきなどまずいなかった。
 泰平のような介護士にたいしては、エスサンもわりと心をひらいた。もっともそれも、両者の主従関係がはっきりしていて、自分が相手より一段上の立場にあるのだと彼が、はっきり格差をつけているのは泰平にはよくわかっていた。そしてその立場を維持することが、両者の関係を円満に保つ秘訣だということを、介護者安楽泰平はもちろん理解していた。
 泰平は、収納庫から、その日その日おくられてくる調理パックをとりだし、中身を皿にあけて、エスサンのまえのテーブルにおいた。空気にふれると同時に、ジュウジュウと肉が音をたてはじめた。
 烏口星人の食事風景ほどすさまじいものはなかった。老齢からくる衰えに、ふだんは歩くことさえおぼつかない彼がいまは、脂ぎった肉を両手でつかみ、そのとがったくちばしでひきさきながらむさぼる様子は、そばでみていて恐怖さえおぼえるほどだった。おまけにかれは、肉が半分浸るほどソースをふりかけてたべるので、テーブルの上も、着ているものも、たちまちソースでべとべとになってしまうのだった。
「ああ、口が―――」
 いってしまってから泰平は、ぞっとなった。ロクロのところで、彼の口から歯がとびだしたとき同じことをいったが、いまそれがはずみで、しかし絶対いってはならない場面で、ふたたびもれでてしまった。
「え、なんだって」
 あんのじょう、ふだんはしょぼついているエスサンの目が、いぶかしげにぎょろりとみひらいた。その目の奥で、キリリと瞳孔がひきしぼり、痛いまでにきびしい視線がこちらを刺し貫いた。
 エスサンの意識のすべてが、毛細血管に集まる血のように、じわじわと口に伝いあがってゆくのを知った泰平の全身が、にわかに総毛だった。
「あ、いえ、なんでもありません」
「いや、いまおまえはたしかに、口といった。いわなかったとはいわせない。口がどうしたんだ」
「なにちょっと、ソースがついたといってるだけで―――お拭きします」
 これがいけなかった。口のことをいわれる以上に先方は、そこを触られることをなにより忌み嫌った。
「なにをする。この口にさわっておまえは、みんなにいいふらすつもりだな、わたしの口が、カラスの嘴だと」
「だれもそんなこと、ひとこともいってやしませんよ。さあ、もう、お食事はおすみになりましたか」
「すみだって!―――この口から墨がでて、悪かったな」
 事態は急速に最悪の方向につきすすんでいた。もはやなにをいってもエスサンの意識を、口からひきはなすことは不可能とおもわれた。いったんこの状況におちこんでしまうとさいご、あとは墨を吐き出さないかぎり、彼の怒りは決しておさまることはないだろう。
 泰平は進退きわまった。介護者として、烏口星人に墨をはきかけられたというその不名誉の烙印を押されることが、彼には耐えられなかった。シラをきりとおすことはできない。なぜなら、どこへいっても肌に染みついた墨の悪臭からは逃れられないのだから………。
 ここはもう、平謝りする以外、どんな手立てもありはしなかった。泰平は、エスサンにむかって、深々と頭をさげた。
「すみません、すみません」
 これがさらに事態を致命的なまでに悪化させる結果になった。
「よくもぬけぬけと、すみ、すみといいおって―――!」
 そう叫ぶなり相手は、嘴状の口を極限まで開いた。その口の奥からどっと、真っ黒な液体がとびたしたのは、それから一瞬後のことだった。
 

 
5

 匂いというものも、あまりにそれが酷く強烈になると、なにか物理的な塊となって鼻の奥をがつんと殴りつけられるような感覚に襲われるということを、いま泰平は実感した。じっさいかれは、エスサンの吐き出した墨をまともにあびせかけられるなり、くらくらと眩暈をおこしてふらついた。
 なにかが目の前で、ゆれうごくのがわかった。そのため彼はかろうじて、うしないかけた意識をとりもどすことができた。
 その彼の耳に、カアーッという、声とも音ともとれないものがとびこんできた。いったいなんだろうと彼は、墨にまみれた顔をぬぐった。
 と、これはなんだろう、まっくろな羽がびっしりはえそろった生き物がいま、空中で翼を大きくひるがえした。
 なにより泰平が注意をひかれたのは、その生き物の顔の下半分につきでた、嘴だった。それはまったく、エスサンの口とそっくりの形状で、こわごわ泰平は、エスサンのほうをうかがった。当のエスサンもまた、毒気をぬかれた態で、自分とおなじ口をもった空飛ぶ生き物を凝視している。
 そのとき泰平は、自分がいまみている生き物が、カラスという鳥だということを、なぜか理解した。しかしどうしてここにそのカラスが出現したのか、その理由を考えたとき、またしてもしぜんと答えが彼のあたまにひらめいた。
 あのカラスは、じつはロクロの体から分裂した細胞だった。薬の服用をわすれてばらばらになったロクロの体から離れた独立心旺盛な細胞は、まんまと泰平にとりつくことに成功した。もとの主人からはなれると同時に、独立した意識をもつにいたると細胞は、生きてゆくために必要な栄養を、こんどは泰平から吸収するようになった。
 烏口星人から墨をあびせかけられたとき、細胞がとっさにカラスに変身したのにはわけがあった。細胞の変身能力は、ロクロから分離したのち、生存可能な生命形態をいちはやくみつけるためのいわば離れわざで、泰平にとりついたのもそのテクニックがそなわっていたからにほかならない。そしていま、カラスに変身したのは、エスサンから浴びせかけられた墨がじつはエスサンの劣等感から由来するものだということを鋭敏にかぎとった結果だった。そのエスサンの眼前に、彼がふだんもっとも忌み嫌い、ひたかくしにしているもの―――カラスをつきつけることによって、烏口星人を一時的な錯乱状態におとしいれるためだった。
 そんな細胞の思考が、泰平にはまるでじぶんのもののようにはっきり読み取ることができた。細胞がそうやって、じぶんをもっとも軽微なダメージですませられるよう尽力してくれていることがうれしい気持ちで理解できた。今回のことが、エスサン自身の発作が引き金になっているのだとしたら、泰平の側に落ち度はなくしたがって、彼の介護者としての名誉は傷つくことなく、事業所もまた彼に解雇通告をわたすことはないだろう。
 じじつ、突然出現したカラスをみたあとのエスサンの様子は、目は呆けたように虚ろに宙をさまよい、全身からはすべての力がぬけてしまったように、もはやその場にまともに立っていることさえおぼつかないまでになっていた。
 泰平は最後の仕上げとばかり、エスサンをベッド上に横たえると、彼の全身を清拭しはじめた。いまなお猛烈な悪臭が室内にはあふれているが、じぶんの職務だけはきちんとやりとげなければならなかった。
 一時間後泰平は、ユニスペの座席から、後方にはなれてゆくエスサンのユニットをみおくっていた。細胞はすでにカラスから、またもとの泰平の体の一部に溶け込んでいて、とにかくなんとかここまでこぎつけたことを彼とともによろこんだ。
 泰平は気をよくして、ユニスペのエンジンを全開させた。


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