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伊澄さん

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孤独の握手

18/07/06 コンテスト(テーマ):第1回 時空モノガタリ短編文学賞 コメント:0件 伊澄 閲覧数:156

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 彼と彼女を初めて見たのは、十年前の秋だった。僕は孤独の意味も知らない十歳の子どもだった。
 井の頭公園のベンチに座って彼は池の向こうを見ていた。彼女は彼の足元にスフィンクスみたいに毅然と座っていた。
 忘れもしない、その日は二学期の始業式だった。
「た、たたっ」
 転校初日だった僕は自己紹介ができなかった。吃音を発症し、特にタ行が苦手だったのだ。立石哲志。タ行だらけの自分の名前を呪った。
「立石君、大丈夫だから座ってください」
 担任の教師が声をかけたが、何が大丈夫なのかさっぱり解らなかった。薄気味悪い物を見るクラスメイトの視線が今でも心に刺さっている。
 両親の離婚とシンガポールから日本への引越しが重なってしまった環境は、少なからず負担だったようだ。そのすべてのストレスが言葉の最初の一音にのしかかった。最初の一音がどうしても出てこなかった。
 どこか寂しそうな彼と彼を守る凛とした彼女の姿に惹かれた。けれど、醜い声で話しかける勇気はなく始業式の日はそのまま家へ帰った。
「家では英語で話そうか?」
 父はそう提案した。不思議なことに英語を話す時は吃音がでなかったのだ。
 その言葉に僕は傷ついた。言葉をつかえても話を聞いてほしかった。日本語を話す自分に烙印を押された気がした。
「気にすることはないよ。大人になると直るものだと先生もおっしゃっていたから」
 仕事が忙しい父は子どもにかまう時間がなかったのか、生真面目に医者の言うことを信じたのか、その時はわからなかった。父の言葉は何の救いにもならなかったことだけは事実だ。僕は毎朝絶望と共に目覚めた。
 彼と彼女に初めて声をかけたのは、クラスでの疎外感にも慣れ始めた九月下旬だった。彼は池のほとりで地面を撫でていた。周囲の大人たちの視線は、クラスメイトが僕を見る時と同じだった。いたたまれなくなって、だまって彼の隣にしゃがんだ。
 声を掛けずに近寄ったことは、彼をひどく驚かせてしまったようだった。僕は反省して、勇気を振り絞って声を出した。
「なな なっにしてるっんですっか」
「鍵を落としてしまったみたいで」
 彼女は心配そうに彼の足元のにおいを嗅いでいた。彼が探している場所とは全然違うところに、大きなキーホルダーのついた鍵は落ちていた。拾って無言で彼に渡した。
「ありがとう。とっても優しいね」
 彼はそう言ってベンチに座った。彼の元を離れられなかったのはなぜなのか、今でも分からない。気が付くと彼の隣に座っていた。大きな水面が秋の日差しをきらきらと反射させていた。
「寒くない?」
 平気だと答えたかったが、どもるのが怖かった。
 いつも首を縦や横に振って意思表示をしていたが、彼にはそれが通じないのだ。
「鍵を渡してくれた時、手がとても冷たかったから」
 彼は優しく笑った。
「さっささむくない」
「よかった」
 聞きたいことがたくさんあった。彼や彼女の名前、どこに住んでいるのか、いつもここで何をしているのか。たくさんの思いが喉元で詰まって息苦しくなった。
「名前聞いてもいい? 僕は里中透っていいます」
 よりによってなぜ名前なのだろう。僕は彼の手を取り、手のひらにゆっくり文字を書いた。
「た て い し て つ し」
 素敵な名前だね、と彼は呪われている僕の名前を褒めてくれた。
「とっとととおっるさん」
「とって言いにくい? 透のルーで、ルーさんって呼んで」
「っルーさん」
 ふふ、と柔らかく彼は答えた。
「こっここの いっいぬの名前は?」
「モモだよ」
「モッモモ」
 僕の声に彼女はふいっと顔を向けた。
 僕がいくら言葉を詰まらせても彼は微笑んでいた。ゆっくり時間を編むように、僕のたどたどしい言葉を聞いていた。
 彼はいつも遠くの方を向いていた。どうしてそうしているのか聞けなかった。たくさんの聞きたいことは、喉元でつまった。
 十月が終わる頃になると、放課後に公園で彼と会うことが日々の望みになっていた。クラスで完全に孤立しても、なぜか平気だった。
 誰にも話せなかった吃音の悩みを吐露できたのも、初めてのことだった。
「おおっとなになると、治るって」
「大人になるまでなんて待てないよね」
 優しく微笑む彼は心の代弁者だった。
「歌ってみたら?」
「うっううた?」
「田中角栄って知ってる?」
 そう言って彼は暖かく笑った。彼はいつも目を閉じていたけれど、僕の中には温かく優しい眼差しで記憶されている。
「昔の総理大臣だよ。彼は吃音だったけれど、歌ってなおしたそうだよ」
 モモが大きなくしゃみをし、彼は彼女の頭をそっと撫でた。
「演説がとても上手だったみたい」
 吃音でも総理大臣になった人がいる事実は、真っ暗な世界に射した一筋の光になった。
「歌ってみて」
「や、や、ややだよ」
「哲くんの声とても綺麗なのに」
 自分の声を醜いと思っていた僕は、その言葉を信じられなかった。
「歌ったら直るかも。田中角栄みたいに」
 枯葉がカサカサと舞い、子どもの笑い声が遠くから流れて目の前をふわりと通っていった。

 ゆかいにあるけば うたもはずむ
 おひさまきらきら かぜもあおい……

「あ……」
 歌い終わった後もしばらく、僕の声は風に乗って辺りを浮遊していた。
「驚いた……!」
 その日から、歌うことは救いになった。
「哲くん、聖歌隊に入ってみない?」
 十一月の半ば、彼に誘われるまま僕は教会に行った。その時初めて僕は彼と公園の外を歩いた。全身全霊で彼を先導しているモモを、僕は心底尊敬した。
「犬ってね、信号の色はわからないんだ」
 信号を待っているとき彼はそう言った。
「モモは周りの人を見て判断して、僕はモモを信じて歩くんだよ」
 僕はそっと目を閉じてみた。車の音、風が吹き抜けるような音。何かにぶつかるような気がして、僕は一歩進んですぐに目を開けてしまった。
「モモ! えらい!」
 気のせいか誇らしげにモモはしっぽを振った。
 神さまがいるのなら僕の吃音を治してほしい。最初はそんな下心があった。けれど、古いステンドグラスから降り注ぐ光を浴びながら聖歌を歌っているうちに、吃音のことは気にならなくなっていた。それよりも、彼の目が見えるようにと祈っていた。

 主は ゆたかな あがないにみち いつくしみふかい

「またね」
 それが彼と交わした最後の会話になった。
 灰の水曜日のミサを境に、彼と彼女は消えてしまった。僕は冷たい風が吹く中、ポケットに手を突っ込んで背中を丸めて毎日、毎日、待った。最後に会った日のこと――神父さまが灰で書いてくださった十字架が彼の額できらりと淡く光ったのを見て、僕の額も同じように光っているのだと思たこと、神父さまはモモにも灰をかけてくださったから、灰のかかった三人でなんだか分からないけれど笑い合ったこと――を思い出しながら公園で待った。



「すみません、TETSUさんですか? 歌手の」
 公園のベンチでぼんやりと池を眺めていると声をかけられた。
「はい」
「めっちゃファンです! 帰国してたんですか! サインいいですか?」
 彼女はそう言って先月リリースしたばかりの僕のCDを見せた。
「僕サインとかなくて、署名になっちゃいますけど」
 女性は僕が記名したCDを嬉しそうにバッグに収めて去っていった。僕はポケットからニット帽を取り出して深くかぶった。
「すみません、哲くんですか? 歌手の」
 僕の顔って帽子をかぶっても目立つのだろうか。少し面倒な気持ちを押さえて僕は振り返った。
 そこには、あの懐かしく温かい眼差しがあった。
「ル……ルーさん!?」
 驚いて立ち上がった僕を見て、彼はふふ、とまあるく笑った。
「え、なんで……てか、目!」
 その瞳はまっすぐに僕を見つめていた。
 彼は十年前の灰の水曜日の後、角膜移植手術をしたこと、驚かせたい気持ちと失敗したらという不安があって僕には手術のことを言えなかったと話した。僕も、ミサの一か月後に海外転勤になった父についてラオスに引越し、その後も海外を転々としたことを話した。
「事故に会ったんじゃないか、僕のこと嫌いになったんじゃないかって……」
 言葉を詰まらせると、彼は涙ぐんで謝った。
 三月の風がそよぎ流れた。
「モモは?」
「三年前に召されたよ」と、彼は寂しそうに言った。
 十年ぶりに会った彼は、少し若返ったように見えた。僕より十しか違わないと知って驚いた。子どもの時、二十歳の彼はもっと大人に見えたから。
「ルーさん、僕のことよく分かったね」
「テレビから歌が流れて来た時、すぐに分かったよ」
 昔と変わらない優しい笑顔で彼は池の向こう側を見ながら言った。
「ルーさん、ここでずっと池を見てたよね」
「うん」
「どうして?」
「十歳の時に失明して、見えなくても見える唯一の景色だったから。忘れないようにここに座って刻み付けてたんだ」
 アサガオ型の噴水がぱっと開いて、水の粒がキラキラと瞬きながら池に落ちた。
「でもね、手術の後見たら全然違う景色で……笑っちゃった」
 それから日が沈むまで僕たちは色々な話をした。彼の笑顔を見るたびに、灰の水曜日に三人で笑い合った光景が浮かんだ。連絡先を交換して、僕たちは十年ぶりに「またね」と別れた。

【シンガーソングライターのTETSU、アイバンク&アイメイト基金設立】
 各メディアに記事が出た当初は「売名」と心無いことを言う人もいたが、活動を続けているうちにそんな声は消えていた。
 僕の歌が誰かを救うなんて傲慢なことは思っていない。けれど、僕の暗い世界に彼が光を射してくれたように、誰かの心に届くことを祈って今日も僕は歌っている。


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