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話はそれからだ

18/06/12 コンテスト(テーマ):第157回 時空モノガタリ文学賞 【 コメディ 】 コメント:0件  閲覧数:174

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 促され分娩室に入ろうとした瞬間、廊下を挟んだ向いのドアごしに聞こえてきたのは分娩中と思しき妊婦の耳をつんざくような絶叫。
 もう殺してぇえええええ、切ってくださあさあああーーい、いいいいいいいああああああ。
 そ、そんなか。思わずへたり込んで座ってしまったピンク色のソファの端をつかんだ指の爪がウレタンに食い込む。
 傍らでは駆けつけた実母が、看護師さんに「あの、大丈夫かしら。あんまり切っちゃったらこの子、旦那にきらわれたりしないかしら」などと口走っている。おそらく会陰切開のことだろう。そんな不毛なやりとりに気を留める余裕はない。一定の間隔で襲ってくるすさまじい痛みのなかで思うのはただひとつ。このいくさ(?)、ゆめゆめ無駄に泣き叫び体力を消耗してはならない、ということ。この期に及び、他の十も十五も年若な産婦さんたちとおなじように痛い痛いと叫んでいては身が持たない。とにかく産み出すということに集中するのだ。
「はーい、いきんでくださーい。ひぃ、ひぃ、ふうー。そう、いいですよぉ、その調子」
 分娩台の上に足を開いて寝かされてから親しみに満ちたちからづよい声で励ましてくれる助産師さん。彼女のそのプロフェッショナルな落ち着いた表情、すばらしい。
 陣痛の合間合間に、自らの経験や、お子さんのことなどを語ってくれるその明るくさっぱりとした口調の頼もしさ。仰せの通りに、あなたについていきます!そんなことばが喉元まで出かかっていることに気づく。
 高齢出産と呼ばれる身だが、初産ともあって何もがはじめての経験だ。この腰の奥深くから突き上げる形容詞し難い重苦しい痛みも、赤子が産道をおりてくるという自然分娩ゆえの神秘も。数か月前、院内でおこなわれた母親学級で学んだ「いきむ練習」がいかに児戯に等しかったか、もだ。
「ちょっと疲れちゃったかな。次、頑張って思いっきりいきみましょう――いち、に、さん、はい――」
 力がなかなか効果的に入らない。先ほどまで陣痛に耐えつつ待機していた個室に冗談のような大盛りの冷やし中華が運ばれてきたのを思い出す。食べておかないと、体力が持ちませんよ。と言われたがほとんど喉を通らなかった。アレ食べとくべきだったのか。
 これでも全力なんです。どうすりゃいいの――思えばいつでもこうだ。昔から優柔不断で何をするのも人より遅かった。幼稚園でお弁当を食べ終わるのも、駆けっこもビリ、算数の問題を解くのもリコーダーが吹けるようになったのもクラスで一番遅かった。仕方ないじゃん、と思って拗ねていた。
 受験も就職もやる気もなくのろのろとしているうちに、気がつけばいっしょにスタートしたはずの人たちははるか先を行っていた。結婚しました。子どもが生まれました。写真付きの年賀状には毒々しいオーラが放たれている、目の眩みを覚えつつ他人事でしかなかった。
 まわりにありとあらゆる世話をかけながらここまできたのだ。そしてどうにか身籠ってみれば悪阻を呪い、コーラとガリガリくんばかり摂取し、生まれてくるだろう子のおよそあらゆる心配事に囚われ、自分の行く末を案じてこもりきる、そんなネガティブまるだしな日々だった。
 世の中には胎教によかれと美しい音楽を聴き、何百冊も育児書を読み、身体にいい食事をこころがけ、適度な散歩を日課にして我が子の誕生に備えるすっくと立つ母もいるのだ。それにくらべて私は。
「寝坊しちゃったよ」
 満を持して現れた担当医が助産師さんに軽口をたたきながら分娩台わきのステップをのぼり私の傍らに立った。せり出した腹に手のひらを当て医師はぐいぐいっと押し出すように体重をかけてくる。そんな原始的に力を加えるものなのね。くりかえし押されたのち、不意に医師の動きが止まり首を深く垂れ目をつぶっている気配。
 うーん、だめだ血圧が……とつぶやく声が聞こえたかと思うと、彼はあえなく分娩台のステージを降り部屋から出た。 え、退場しちゃうの、そんなのあり? 
 先生ちょっと血圧が上がっちゃったみたい、と苦笑する助産師さんのことばに上手くいきもうと焦るばかりだった私の力がふっと抜けたのがわかった。
 つづいてあろうことかくくくっと体を折り曲げて笑い出したい衝動にかられたが、それは思いとどまる。ともかく重苦しい状況がパチンと音を立てて弾けた瞬間だった。これはのちほど笑い話にするしかない。

 なあ、きみ。おそらく今、死に物狂いで産道を旋回中のきみよ。
 こんな怠惰なへなちょこ母から生まれてくるはめになった身だもの、いろいろと言いたいことはあるだろう。文句も山ほど背負って来るのだろう。受け止められる自信なんかありはしない、根性なしだ。悪いが、それがきみの母だ。
 いまはとにかく後押しするからおたがいはやいとこ一息つこう。まずは外へ出ておいで。
 話はそれからだ。


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