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腹時計さん

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駆け落ちの賭けをしようか

18/06/03 コンテスト(テーマ):第157回 時空モノガタリ文学賞 【 コメディ 】 コメント:2件 腹時計 閲覧数:144

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 彼はそのとき高二で、高橋はその担任だった。残暑厳しい秋の日の放課後、束ねていないカーテンが波打つ教室で、彼は爆弾発言を投下した。

「先生、ぼくと駆け落ちしてください」

 高橋はしばらくその意味がつかめず呆然とした後、激しく咳き込み、息苦しさに身体をくの字に曲げる。なんだか胃がむかむかするのは、きっと気のせいではない。元凶の発言をかましてくれた生徒は、無表情のまま、冷めた目で高橋を見下ろしていた。夏服のシャツのボタンを上まで留め、しっかりと着こなしていらっしゃる彼は、頭脳明晰でおとなしく、まちがいなく教師の手を煩わすことのない優等生だった。……つい十秒前までは。
「ごめん、ちょっと待って。いったん落ち着こうか」
「先生が落ち着いてください。ぼくは通常通りです。大丈夫ですか」
 無表情になだめられる。高橋は高速回転する心臓の辺りに手を置いて深呼吸した。どこか遠くでちりん、ちりりん、と自転車のベルが鳴っていた。やたらと軽やかな音で、今の高橋の心情にはそぐわなかった。
「……お前、男が好きなのか」
「いいえ。女の子が好きです。望月さんと付き合ってます」
 まさかの情報が飛び出したが、今はわりとどうでもいいことだった。
「じゃ、じゃあ望月さんと駆け落ちしろよ」
 言ってから気づく。教師が駆け落ち推奨してどうする。
「先生はわかってないですね」
「は?」
 深くため息をつく優等生。眼鏡のブリッジを上げる仕草が嫌みっぽい。
「駆け落ちっていうのは、意外性がないとだめでしょう」
「お前と駆け落ちしたら意外性どころか、俺クビになるから。そもそもなんで駆け落ちしたいんだよ?」
「先生が好きだからです」
 即答だった。
 高橋は思わず半目で彼を見た。しばらく見つめ合ってから、優等生はおもむろに半袖から伸びた白い腕をさすった。
「……すみません、さすがに鳥肌が立ってしまいました。今のは撤回させてください」
「俺だってさっきからずっと鳥肌だよ!」
 だが、少し安心する。彼は駆け落ちがしたいのではない。
 何かから、逃れたいと思っているのだ。
 
 夕焼けで教室が赤く染まってゆく中で、彼はぽつりと言った。
「ぼく、……看護師になりたいんです」
「え、じゃあ志望学科変えるの? 今の君なら、医学部看護学科でも十分行けるだろう」
「……父が反対しているんです」
 高橋は今さらながら、彼の頬がなんとなく腫れている理由を察した。かつて三者面談で顔を合わせた彼の父親の、えらの張ったしかめ面を思い出す。いかにも頑固一徹そうな、人に指示を出す立場に慣れている男性に見えた。
「お父さん、弁護士さん……だっけ?」
「はい」
 だから息子にも法曹界で活躍してほしい。それは親のエゴと言えるのかもしれないけれど、それだけだと断言して非難できるほど、高橋は彼らの親子関係に詳しくはない。教師とはいえ、生徒のすべてを理解できるわけではない。彼の父親の言い分も理解できる。子どもの将来を案じるのは当たり前のことだ。

「駆け落ち、してやろうか」
「え?」 
 鳩が豆鉄砲を食らった顔とは、きっとこういうのを言うのだろう。
 やけくそになった生徒に感化されてどうする、こんなのよくある青春の悩みではないか。何十人、何百人もの生徒を見てきた高橋にとって、彼のような悩みはわりとありふれている。
 それでも、今、高橋は彼の青臭く揺れる心に寄り添いたかった。例えそれが教育者にふさわしくない振る舞いだとしても。夢を追う若姿は、いつだって素晴らしいものなのだ。それを「担任のセンセイ」として支えて何が悪い?
「お前が看護師になれなかったら、駆け落ちしてやる。こんなおっさんと愛の逃避行なんて、嫌だろ? だからそうならないように、俺も応援するから。な、これからまだ時間はあるんだから」
 風がやむ。開け放した窓の向こうで、野球部の野太いかけ声が響いていた。
 しばらくして、優等生はちょっとだけ笑った。高橋は彼の笑顔を初めて見たような気がした。
「まあ、確かに。先生、ちょっと加齢臭しますしね。駆け落ちはきついです」
 ひそかな衝撃を高橋に与え、センセーショナルな優等生の駆け落ち宣言は収束した。
 高橋がすみやかに消臭スプレーを購入したのは、どうでもいい後日談である。

 五年後、高橋は学校宛てに一通の手紙を受け取った。「駆け落ちはしません。先生、ごめんなさい」と記された角張った文字が並んでいた。同封されていた写真の中で、あのおかしな優等生と望月さんは穏やかに笑っていた。
どうやら高橋は振られたらしい。今までの人生の中で、一番嬉しい振られ方だった。笑みがこぼれて、慌てて口元を引き締めた。
 高橋はそれを古びた机の引き出しにしまって、教科書と名簿を携えて職員室を出た。ちりりん、とどこかで風鈴の音がした。


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このストーリーに関するコメント

18/06/14 文月めぐ

拝読いたしました。
将来の進路を迷う高橋、彼の突拍子もない考えは笑えるけれど、それだけ心理的に追いつめられると現実逃避したくなるのは誰でもあることなのでしょうね。
風鈴の音の描写が良いアクセントになっていると思います。

18/06/14 腹時計

文月めぐ様
いつもお読みいただきありがとうございます。
風鈴の音は、ささやかながらも自分なりに意識した描写だったので、ご指摘いただけてとても嬉しいです。

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