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伊川 佑介さん

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海に浮かぶ男

18/05/28 コンテスト(テーマ):第156回 時空モノガタリ文学賞 【 浮遊 】 コメント:0件 伊川 佑介 閲覧数:90

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 最初、水死体かと思った。痩せこけたウェットスーツ姿の男が海面にプカプカ漂っている。しばらく眺めていると、男がゆっくりとこちらに顔を向けた。達観したような、灰汁の抜けた澄んだ瞳をしていた。

「10年くらい前から、ここでゆっくりしてるのよ」
男に案内されるまま、海辺の小屋に入った。自然の中にポツンと建った、侘しく朽ちた小屋だった。寝袋と携帯コンロ、少しの食器があるだけで、中にはほとんど物がない。男が差し出した、酷く薄いお茶を飲んだ。
「少し前にも女の子が来てね。あんたみたいに、岸壁の上からこっちを見てるから誘ったのよ。可哀想に、末期の癌だって話で。俺は医者でもないし金があるわけでもないから、話を聞いただけだけど」
男は僕がここに来た目的を見透かしているようだった。
「自殺の名所なんでしょ、ここ」
なんて答えたらいいか分からず、黙ってもう一度お茶をすすった。

 誘われるままに、手渡されたボロボロのビート板を胸に抱えて、仰向けで海に浮かんだ。すぐ横では男が何も抱えず同じように浮かんでいる。意図を掴みかねながらも、僕にはそれを拒絶する気力が残っていなかった。昼過ぎで、強い日が差していた。
「最初見た時、水死体だと思ったでしょ」
「はぁ」
「あれはあれで意味があるのよ」
ここに来てようやく、男が自殺防止の活動をしているのだと何となく分かってきた。
「ここは波も静かだし、潮の流れもほとんど無い。自殺には向いてないと思うんだけどね。なぜか昔から多い。今はネットとかでも有名になって」
眼前には青空が広がって、涼しい風が微かに流れていた。落ち着いた男の声が水面に反響して広がっていた。
「俺も昔、何で生きてるのか分からなくなってここに来て。でも飛び込む勇気は無くってね。しばらくこうして意味もなく浮かんでたのよ。そしたらたまたま来た人が、俺を見て帰ってったんだ。先客がいたと思ったんだろうね」
「……」
「何が人の役に立つか分からないよ」

 小屋に戻り、少し早い夕食をご馳走になることになった。メニューはよく分からない豆のスープだけだった。味付けは一切していないと言う。
「あの時、帰っていく人を見て、俺にもまだ何かやれる事があるんじゃないかと思って。それからは人を見かけたら出来るだけ声をかけようと思った。でもそれが本当に役に立ってるか分からない。帰ってった人も、別の場所で死んだだけかも知れないし」
両手で数えるくらいの豆が、ただ食器の中で浮かんでいる。割れている豆もあって、黒々とした中身が溶け出していた。
「……これは何の豆ですか」
「わからない。近くに生えてる豆を海水で煮ただけだから。塩味が効いてるでしょ」
少し口に含むと、ジーンと舌が痺れてきた。
「人は何でわざわざ名所で死にたがるんだろうね。自分の部屋で首でも吊りゃあ確実なのに」
「これ、食べても大丈夫なんですか」
「大丈夫だよ。俺も毎日食べてるけど、今のところ死んでない」
ふと、豆の有毒性を気にしている自分に気づいた。先ほどまで死のうと思っていたのに、どうした事だろう。やはり本心では誰かに止めて欲しかったのだろうか。
「海に浮かんでいると、達観した気になって全部どうでも良くなってね。できれば死んでほしくは無いけど、無理強いするつもりはないんだ。人それぞれ事情があるから」
急に男が真剣な顔をしてこちらを見た。
「よく考えるんだよ。明るい事。楽しい事を。ほんの些細な事でも、将来の夢を」
何か言葉を返そうとして、舌が痺れて上手く喋れなかった。

 それから、5年ばかりの月日が過ぎた。人生は全く好転していないが、希死念慮はほとんど消えて、それなりに楽しく毎日を生きている。あの人に会いたくなって、僕はまた件の名所を訪れた。岩壁の上に立っても彼の姿は見当たらない。小屋の入口には南京錠が付けられ、窓から中を見るともぬけの殻だった。何らかの事情で活動を辞めたのか。それとも謎の豆が当たって死んでしまったのだろうか。
 小屋の陰で海パンに着替えた。また誘われたら一緒に浮かぶつもりだった。ゆっくりと海に入ってひとり水面に浮かんだ。曇ってはいたが、変わらず空が広がって、心地よい風が吹いている。ふと、何かが視界に入って岩壁の上を見た。女が恐る恐る崖下を覗き込んでいる。僕は潮に流される水死体のふりをして、ゆっくりと女の視界に移動した。そしてあの人がそうしたように、優しく、達観したような笑顔を彼女に向けた。
「キャーッ!」
驚いて、女は走って逃げていった。笑顔が不自然だったか。振り向くのが突然すぎたか。これで良かったのだろうか。分からないまま空を見上げた。きっと彼女は生きていく。そして僕も生きていく。曇り空を眺めながら、ぼんやりとそう思った。


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