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18/03/20 コンテスト(テーマ):第154回 時空モノガタリ文学賞 【 復讐 】 コメント:2件 吉岡 幸一 閲覧数:173
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老いた桜の木の下に男は腰をおろし、コンビニで買った缶ビールを飲んでいた。満開の桜は月の明かりに照らされて艶めかしく揺れている。夜の十時を過ぎた川沿いの土手には花見をしに来る人もなく、湿った風が薄い雲を東に流し、止まっているような川が半分の月影を水面に写していた。 川沿いの一本桜、周りには桜の木だけでなく他の木も生えていない。何十年もの間、ただこの老木だけが根をはり、川を見守るように立っていた。 男がこんな時間に来たのは夜桜を見物に来たわけではなかった。むしろ桜の季節にこの場所に来たくはなかった。ちょうど一年前、この桜の木の下で子犬を殺し目の前の川に捨てたことを思い出すからだ。 殺したのは当時同棲していた元婚約者が飼っていた子犬だった。チワワという犬種らしい。散歩に連れ出したとき衝動的に首を絞めて骨を折ってしまったのだ。子犬に恨みがあったわけではないし、計画的に散歩に連れ出したわけでもなかった。元婚約者の浮気を疑う怒りの気持ちを子犬に向けてしまったのだった。もちろん後悔しているし、確証のない疑いだけで関係のない子犬を殺めてしまったことを反省している。 散歩から走って帰った男は迫真の演技で元婚約者に謝った。「犬が逃げてしまった。リードから手を放した隙にいなくなってしまったんだ」 それから二人で探し回ったが見つからなかった。散歩した道筋とは反対の方向を散歩したと男が言ったからだ。 元婚約者の悲しみようは男をも深く落ち込ませた。男を責め立てることもせず逆に謝ってくるような元婚約者を前に、とても浮気を問いただすようなことはできなかった。 一週間後に男が家を出ていったことで二人の関係は終わりを迎えた。川に捨てた子犬がどうなったか知らないし、家を出た後、元婚約者からは一切連絡がなかったのでその後の様子を知ることもなかった。 それが突然、昨夜メールで呼び出されたのだった。用件は書いていなかった。ただ場所と時間だけが書かれてあるだけだった。 子犬を殺してしまったことがバレてしまったのか。 それしか思いつかなかった。きっと罵倒されることだろう。それどころか仕返しをされるかもしれない。 男は覚悟を決めていた。それは償いだけではなく、解放されるという安堵の気持ちも混ざったものだった。 男が過去を振り返っていると、元婚約者が土手沿いの道を歩いてやってきた。両腕に殺した子犬と同じ犬種のチワワの成犬を抱いている。 立ち上がって顔を見たとき、元婚約者の顔に憎しみのないことにすぐに気がついた。「ごめんなさい。チワちゃんがいなくなったせいで私ふさぎ込んでしまって。きっと責められたような気持ちになったのよね。それで嫌になって家を出ていったんでしょう。私が自分で散歩に連れて行けば、あなたを苦しめたりしなかったのに」 予想外の言葉に返事も出来ずにいると元婚約者は泣き出した。男はハンカチで涙をふいいてあげると「また犬を飼い始めたんだね」と優しく言った。 風が吹き、枝をはなれた桜の花びらが宙に舞った。風は花びらを川まで運び川面に舟を浮かべた。一片だけ犬の頭に舞い降りたが犬も元婚約者も気づいていないようだった。「どうしてこんな夜にこんな場所に呼び出したんだい」「去年、ここに桜が咲く前に一度チワちゃんを連れて二人できたでしょう。そのとき、桜が咲いたら一緒に夜桜見物をしようって言ったのを思い出したから」「ああ、そうだったね」すぐに男は思い出したが、こんな理由でわざわざ別れた男を呼び出すとは思えなかった。「でも、他にも言いたいことがあるんじゃないのかい」「もう一度やり直したいの。ようやく私も立ち直って新しい犬を飼うことができたのよ。どうか許して」 許してもらわなくてはならないのは男の方だというのに・・・・・・。 元婚約者は抱いていた犬に桜の花びらが乗っているのに気がつくと、指で取って木の根元に落とした。そして犬を持ち上げるとふいに男の胸に押しつけた。 男が反射的に受け取ると、それまで大人しくしていた子犬は急に眉間に皺を寄せると一声吠え、いきなり男の鼻頭にかみついた。 慌てて子犬を引き離そうとするが牙が鼻に突き刺さって離れない。引き離そうとするたびに、より強く子犬は男の鼻を噛んで千切ろうとした。「チワちゃん、いけない、噛んだら駄目よ」 鼻から血がだらだらと流れ落ちる。男が膝をついて、ようやく犬は口を離した。――殺した子犬と同じ名前をつけられた犬。男は元婚約者の涙を拭いたハンカチで血の流れる鼻をおさえた。溢れた血は桜の木の下に流れ落ちる。 男が痛みに耐えきれず、勢いよく桜の幹にもたれかかると、老いた桜は花を撒きながらミシミシと折れていった。 犬は嬉しそうにしっぽを振りながら、元婚約者の唇を赤い血で染めながら舐めていた。
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18/03/26 文月めぐ
『夜桜と犬と』拝読いたしました。犬を逃がしてしまった、と殺したことを言わずに嘘をついてしまった男にどんな復讐が起こるのかと想像しながら読みました。最後の一文に復讐する気持ちの怖さを感じました。
18/03/27 吉岡 幸一
文月めぐ様コメントをいただきありがとうございます。大変嬉しく思います。
老いた桜の木の下に男は腰をおろし、コンビニで買った缶ビールを飲んでいた。満開の桜は月の明かりに照らされて艶めかしく揺れている。夜の十時を過ぎた川沿いの土手には花見をしに来る人もなく、湿った風が薄い雲を東に流し、止まっているような川が半分の月影を水面に写していた。
川沿いの一本桜、周りには桜の木だけでなく他の木も生えていない。何十年もの間、ただこの老木だけが根をはり、川を見守るように立っていた。
男がこんな時間に来たのは夜桜を見物に来たわけではなかった。むしろ桜の季節にこの場所に来たくはなかった。ちょうど一年前、この桜の木の下で子犬を殺し目の前の川に捨てたことを思い出すからだ。
殺したのは当時同棲していた元婚約者が飼っていた子犬だった。チワワという犬種らしい。散歩に連れ出したとき衝動的に首を絞めて骨を折ってしまったのだ。子犬に恨みがあったわけではないし、計画的に散歩に連れ出したわけでもなかった。元婚約者の浮気を疑う怒りの気持ちを子犬に向けてしまったのだった。もちろん後悔しているし、確証のない疑いだけで関係のない子犬を殺めてしまったことを反省している。
散歩から走って帰った男は迫真の演技で元婚約者に謝った。
「犬が逃げてしまった。リードから手を放した隙にいなくなってしまったんだ」
それから二人で探し回ったが見つからなかった。散歩した道筋とは反対の方向を散歩したと男が言ったからだ。
元婚約者の悲しみようは男をも深く落ち込ませた。男を責め立てることもせず逆に謝ってくるような元婚約者を前に、とても浮気を問いただすようなことはできなかった。
一週間後に男が家を出ていったことで二人の関係は終わりを迎えた。川に捨てた子犬がどうなったか知らないし、家を出た後、元婚約者からは一切連絡がなかったのでその後の様子を知ることもなかった。
それが突然、昨夜メールで呼び出されたのだった。用件は書いていなかった。ただ場所と時間だけが書かれてあるだけだった。
子犬を殺してしまったことがバレてしまったのか。
それしか思いつかなかった。きっと罵倒されることだろう。それどころか仕返しをされるかもしれない。
男は覚悟を決めていた。それは償いだけではなく、解放されるという安堵の気持ちも混ざったものだった。
男が過去を振り返っていると、元婚約者が土手沿いの道を歩いてやってきた。両腕に殺した子犬と同じ犬種のチワワの成犬を抱いている。
立ち上がって顔を見たとき、元婚約者の顔に憎しみのないことにすぐに気がついた。
「ごめんなさい。チワちゃんがいなくなったせいで私ふさぎ込んでしまって。きっと責められたような気持ちになったのよね。それで嫌になって家を出ていったんでしょう。私が自分で散歩に連れて行けば、あなたを苦しめたりしなかったのに」
予想外の言葉に返事も出来ずにいると元婚約者は泣き出した。男はハンカチで涙をふいいてあげると「また犬を飼い始めたんだね」と優しく言った。
風が吹き、枝をはなれた桜の花びらが宙に舞った。風は花びらを川まで運び川面に舟を浮かべた。一片だけ犬の頭に舞い降りたが犬も元婚約者も気づいていないようだった。
「どうしてこんな夜にこんな場所に呼び出したんだい」
「去年、ここに桜が咲く前に一度チワちゃんを連れて二人できたでしょう。そのとき、桜が咲いたら一緒に夜桜見物をしようって言ったのを思い出したから」
「ああ、そうだったね」すぐに男は思い出したが、こんな理由でわざわざ別れた男を呼び出すとは思えなかった。「でも、他にも言いたいことがあるんじゃないのかい」
「もう一度やり直したいの。ようやく私も立ち直って新しい犬を飼うことができたのよ。どうか許して」
許してもらわなくてはならないのは男の方だというのに・・・・・・。
元婚約者は抱いていた犬に桜の花びらが乗っているのに気がつくと、指で取って木の根元に落とした。そして犬を持ち上げるとふいに男の胸に押しつけた。
男が反射的に受け取ると、それまで大人しくしていた子犬は急に眉間に皺を寄せると一声吠え、いきなり男の鼻頭にかみついた。
慌てて子犬を引き離そうとするが牙が鼻に突き刺さって離れない。引き離そうとするたびに、より強く子犬は男の鼻を噛んで千切ろうとした。
「チワちゃん、いけない、噛んだら駄目よ」
鼻から血がだらだらと流れ落ちる。男が膝をついて、ようやく犬は口を離した。――殺した子犬と同じ名前をつけられた犬。男は元婚約者の涙を拭いたハンカチで血の流れる鼻をおさえた。溢れた血は桜の木の下に流れ落ちる。
男が痛みに耐えきれず、勢いよく桜の幹にもたれかかると、老いた桜は花を撒きながらミシミシと折れていった。
犬は嬉しそうにしっぽを振りながら、元婚約者の唇を赤い血で染めながら舐めていた。