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キップルさん

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報酬、または悩み多き人生に幸あれ

18/03/04 コンテスト(テーマ):第153回 時空モノガタリ文学賞 【 報酬 】 コメント:0件 キップル 閲覧数:160

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 ザッザッザッ。

 春を待つ柔らかな雪の斜面に一歩、また一歩と足跡が刻まれていく。ところどころ雪の間からぬかるんだ地面が覗き、デコボコの坂道が視線のずっと先まで続いていた。まだ葉をまとっていない落葉樹は、優しい日差しに照らされ網目のような影を生み出している。

 はぁ、はぁ…。

 山に入ってまだ十分ほどだが、すでに男の息は上がっていた。少しペースを落とそうか。うつむいていた視線を上げると、険しい斜面が淡々と続いている。男は再び下を向いて呟いた。「俺は何をしてるんだ。」

「吉田、キャベツの仕込みどうした?」
「あっ、しまった…。」
「またか、いい加減にしろ!」
「す、すいません!」

 男はほんの数時間前の出来事を思い出していた。牛丼チェーン店での夜勤明け、交代で来た一回り年下の店長に仕込みの不備を指摘され、男はヘコヘコと頭を下げた。同種のミスは何度もあり、その度男はこの店長にネチネチと叱責を受けていた。店長に急かされるまま、山のようなキャベツを千切り用の機械に放り込みながら、男の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 山に入って一時間ほど経つ頃、男の足取りはますます重くなっていた。足を上げるのがこんなにも辛いと思ったのは初めてだった。目に映るのは何年も履いてくたびれたスニーカーと、小枝や土を巻き込み薄茶けた雪だけだ。まだ気温は一桁のはずだが、黒いダウンコートの内側は汗でじっとりと蒸れていた。

 男には一緒にバカをした幼馴染がいた。中学に上がる頃から学校をさぼっては、街に出て遊んでいた。高校は卒業したが二人とも定職に就かず、フラフラしていた。不満があるとすぐに仕事を辞め、酒を飲み、適当な女を引っ掛けた。ただそれだけでよく、それがすべてだった。そんな生活がいつまでも続くと思っていた。
 ところが幼馴染は二十半ばで定職に就き、三十で結婚した。男はそんな幼馴染を「何真面目ぶってんだよ」と茶化したが、内心でチクリと嫉妬心が芽生えるのを感じた。しかし、生き方を変えることはできない。男は深い思索を避け、即物的な快楽ばかりを求めた。何かから逃げるように、その意味を知っていたのに。

 ザッ、ザッ…、ザッ。

 不意に傾斜が緩み、木々の隙間から麓の町が見えた。男は生まれてからずっとそこで生きてきた。はじめて見下ろす町は想像よりも小さかった。町の北にはランドマークの電波塔がある。幼い頃、そこに忍び込んで登り見た町はもっとずっと大きかったのに。

 男には三十半ばに、結婚を考えた女がいた。家庭的でよく男を立て、一緒にいて心地よかったが、世間知らずで労働向きではなかった。収入面では男が支えていかねばならなかったが、家庭を築き養っていく覚悟ができなかった。いつの間にか二人は別れ、男はその日暮しを続けた。工場、配送、土方、清掃、飲食…。バイト、派遣、契約社員…。様々な職種、立場で仕事をしたが、どれもしっくりこなかった。
 つい最近、疎遠になっていた幼馴染から連絡があった。もうすぐ孫ができるそうだ。

 ザッ…、ザッ…、ザッ…。

 山に入って二時間ほどが経った。足が鋼のように固くなり、引きずるようにして前へ前へ。男は山へ来たことを後悔した。やっぱり俺には無理だったんだ。考えてみれば、何でも中途半端だったじゃないか。世の中に迎合できず、かといって世捨て人にもなれず、世間の切れっ端にしがみついている。徹底的に苦しみを避け、何一つ成し遂げることもなく。人生が八十年なら、後半に入ってすでに長い時間が経った。
 男は嗚咽を漏らした。俺は取り返しのつかない過ちを犯していたのではないか。俺はいったい何のために生きてきたんだ。ここには男の思索を妨げる快楽がほんの一欠片もない。男は避け続けた苦悩を一身に浴びねばならなかった。その重さに半ば潰されていたが、ここで止まってはいけない気がした。男は泥だらけになり、這いつくばって進んだ。

 ザッ…、…、ザッ…。

 切り立った急な斜面を男は無我夢中で登った。大きな岩に足を掛け、一歩踏み出すと、急に視界が開けた。頂上だ。

 男はその場で倒れ込んだ。もう一ミリだって動けなかった。仰向けになって、目に飛び込んで来たのは真っ青な空。春の陽気をにじませた日の光はじんわりと男の身体を包んだ。すべての重荷がふっと蒸発して消えた。

「悩み多き人生に幸あれ。」

目を閉じて、男は呟いた。

 人はなぜ山に登るのだろうか。誰に何を与えられるわけでもないのに。男にはこれまで分からなかったし、今もまだつかめない。だが、そこには人それぞれの「報酬」とでも呼べる何かがあるのだろう。

「さぁ、次は何の仕事すっかなぁ。」

男は目を開けて、再び真っ青に澄んだ空に焦点を合わせた。


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